ぼやき　〜１〜

8・14　2003

「見える」ということ

「見える」という意味を、若い時にはあまり考えたことがなかった。電子顕微鏡を使った形態学を学んでいたにもかかわらず、である。僕自身は、いわゆる「認知学」などを深く勉強したこともなく、恥ずかしながら齢５０になってようやく、この「見える」ということの奥深さについて、少し考え、少し感じるようになってきた。
　日常生活の中でも、「見える」ということの不思議を考えさせられることがある。毎日通っている道の道端に綺麗な花が咲いていることに、ある日突然気づくことがある。毎年その季節にはその場所に咲いていた筈なのに、そして当然それは僕自身の網膜に映っていた筈なのに、「見えて」いなかった。そして、翌年からは、確かにその季節にそこに咲いているのが「見える」のである。やはり通い慣れている道に沿って建っている建物に関して、同じような（いや、ある意味では逆のような）経験をすることがある。そのような建物のうちの一軒がある日取り壊されているのを見かけた時である。このような場合、不思議なことに、そこにどのような建物が建っていたのかを思い出せないことがしばしばある。やはり、毎日、僕の網膜には映っていた筈なのに「見えて」いなかったのか。
　要するに、「見ていても見えてないもの」、もう少し科学的な言い方をすれば、「網膜に像を結んでいても、脳の中では意味のある像としては意識されていなくて、結局、像を結んでいないのと同じことになるもの」が、世の中には結構沢山あるのではないか。そうだとすると、僕が「見えている」世界と、ある他人が「見えている」世界は、どこまで同じ風景なのだろう？
　この「見える」ということの不確実さは、もっと広げて、人間が網膜に頼らず「認知する」「気づく」「解る」といったことの不確実さにも通じるものがある。ある「真実」のまわりを毎日研究していても、なかなかその「真実」に気がつかず、ある時気づいてしまうと、どうしてこれまで気がつかなかったのか不思議でたまらないといったようなことを、研究者なら誰もが経験しているであろう。　天才的な科学者であるセント・ジオルジ博士が、ウッズホールの臨海実験所に次のような言葉（正確ではないが）を残しているのを見たことがある。
「発見とは、これまで多くの人が見てきたものと同じものを見て、その人たちが気づかなかった真実に気づくことである」。

　「認知」ということを研究しているような方には当たり前のことかもしれないこのような議論が、最近よく「ゆとり教育」などと絡んで発せられる質問、「子供は何のために勉強するのか？」、に答える際に重要なポイントだと僕は思う。少なくとも、大学に入って研究者を志す若者に、僕が、「今は直接関係のない分野の学問でも広く深く勉強しておきなさい」と言う時、その根拠としてこの議論は重要である。
　「研究者の勉強」に話を絞ろう、そして、研究者の人生を（よくある例えだが）、山の頂を目指して旅する旅人に例えてみよう。研究者が初めて自分の責任で研究を遂行しようとするとき、まず、どの山に登りたいかを決めるであろう。その時、凡人には（要するにほぼ全ての人には）大きな立派な山の頂しか見えない。その山は既に多くの旅人が登りはじめており、大変賑わっている。自分もその輪に参加しようと旅を始める。中には、どんどん装備や陣容を充実させ、スピードを増して、先人を追い越し、その賑わっている山の初登頂を果たすケースもあるだろうが、それでは僕のよく言う「凡人の独創性」としてはおもしろくない。「凡人の独創性」を発揮した研究者（旅人）というのは、普通、そうではなくて、次のような道筋を辿るケースが多いと思う。すなわち、賑わっている山を目指して旅を始めたが、なんだか混んでいるところへ突っ込んでいくことを躊躇する気持ちがあり、常に、新しいまだ誰も登っていないような、それでいてある程度の高さのあるような山を探してキョロキョロしつつ、それでもとりあえず賑わっている目標の山へ向かって進んでいく。ある時、ふと、自分がひとけのない山の近くを通っていることに気づき、立ち止まり、よーく眺めてみる。　確かに誰も登っていない。その近くを多くの旅人が通り過ぎているのにもかかわらず、誰一人として振り返らずに通り過ぎていく。見えていないのだろうか？　その旅人にはかなり高い頂がぼんやりとでも見える。そこで意を決して、方向転換してその未踏峰へのアタックを始める。その山が高ければ高いほど、登ってみて他の重要な山と峰づたいに繋がっていればいるほど、その人は「独創性の高い」研究をしたことになる。
　このような例え話でいけば、「独創性の高い」研究ができるための重要なポイントは、近くを通っている旅人の多くには見えない山が自分には「見える」ことであろう。もちろん、賑わっている山へ向かう道程の近くにたまたま「その山」が存在していたという「運」も必要である。生まれつき網膜に正確に像を結べる良い眼球を持っているという、親から授けられた「遺伝的背景（能力）」も必要であろう。これらは、本人の努力ではいかんともし難い。しかし、いくら正確にその山が網膜上に映し出されても、新しい山を見つけだそうとする意識やその山の意味や重要性（高さ）が理解できなければ、その山は（多くの通りかかった旅人がそうであるように）「見えない」のである。この部分は、本人の意識と努力次第でどうにでもなる。いつどのような山の側を通るか分からないのであるから、若い時に広く深く勉強しろ、ということである。情報を詰め込め、というのではない。自分の頭の中に、自分なりの論理をもった幅広い知識を構築しろ、というのである。そして、いつもキョロキョロすることも大切だろう。そのような努力を続けることによって、本当にものが「見える」ための視力が高められていくのだと思う。
　最後に、老婆心ながら一言。旅をしながら勉強するのは大変だ。旅を始める前に充分勉強しておきましょう。未踏峰の山は、実は見えていないだけで、あちこちに残っているのかもしれない。