早石教授時代 

[昭和33(1958)年3月22日〜昭和 58(1983)年4月1日]

 昭和33(1958)年3月に,早石 修は9年余の滞米研究生活ののちに,酸素添加酵素の発見という輝かしい研究業績を携えて,京都大学医学部医化学講座の教授として帰国した。荒木寅三郎,前田 鼎,内野仙治に続く4代目の教授に早石 修が就任したときの教室の在籍者は,久野 滋(金沢大名誉教授),井唯信友(元国立京都病院部長),村地 孝(京都大名誉教授),鈴江緑衣郎(元国立健康栄養研所長,昭和女子大院生活機構教授),谷内 敞(米国 NIH),田代 実(元大阪大医)らで,その年に初めての大学院生として西塚泰美(神戸大学長)が入学し,竹下正純(大分医大名誉教授)が副手であった。続いて小島 豊(元北海道大院地球環境科学研教授),塚田欣司(東京医歯大名誉教授),畑中正一(京都大名誉教授,塩野義医科学研所長),市山 新(浜松医大教授),石村 巽(慶応大医教授),小林修平(国立健康栄養研所長),中沢 淳(山口大医教授),中沢晶子(山口大医教授),中村博行(大阪成人病セ研究室長)らが大学院に入学した。西塚らによってトリプトファン代謝物のキヌレン酸以降の代謝,さらに NAD 生合成へと研究は展開し,また,谷内らによるピロカテカーゼの精製の試みと反応機構の究明が始まった。この間に教室員の出入りがあり,武田薬品から杉野幸夫,ドイツの F. Lynen 門下の沼 正作,東京大学から橘 正道,米国から帰国した徳重正信が参加した。
 昭和34(1959)年から早石教授は京都大学化学研究所教授,昭和37(1962)年から医化学第二講座教授を併任した。また,昭和36(1961)〜38(1963)年の間に大阪大学医学部生化学講座教授を併任し,そこで野崎光洋(滋賀医大名誉教授),鏡山博行(大阪医大教授)らによる細菌のメタピロカテカーゼの結晶化,片桐正之(金沢大名誉教授),山本尚三(徳島大名誉教授),前野弘夫(元山之内製薬研究所長)らによる細菌のサリチル酸水酸化酵素の精製とフラビン酵素としての同定が行われた。野崎と山本はのちに京都大学へ転じた。
 昭和39(1964)年春に教室の大きな人事異動があり,久野 滋が金沢大へ,杉野幸夫が京都大学ウイルス研究所へ,沼 正作がミュンヘンの Max-Planck 研究所へ相前後して転出したのを受けて,西塚泰美,橘 正道,野崎光洋が助教授に昇任した。そのころ多くの日本の研究室は,研究にかかわる設備と金と情報に乏しいなかでもがいていたが,京大医化学教室では,米国の NIH や諸財団の助成金と,早石教授が持ち帰ったベックマンの DU 型分光光度計やパッカードの液体シンチレーションカウンターがあり,多くの外国人訪問者や早石教授自身の外国出張によってもたらされる情報で,まことに恵まれた研究環境であった。それに若い人達にとって恵まれたことは,優秀な同僚が多く身近にいたことである。また,米欧亜の各国からの高名な研究者や若い人で後に大成した人達が教室に滞在し,強い刺激と貴重な経験を与えてくれた。時期は前後するが,Melvin Cohn,Bernard Witkop,Robert K. Gholson,Anthony J. Andreoli,Philip Feigelson,Helen R. Whiteley,M.R. Raghavendra Rao,李民化,James A. Olson,Ronald H. Reeder,Bernard L. Horecker,Giuseppe Cilento,Clinton E. Ballou,Frederick I. Tsuji,Gordon A. Hamilton らである。さらに,昭和41(1966)年5月には京都で酸素添加酵素の日米合同セミナーが開催され,K. Bloch,H. S. Mason ら多くの欧米の研究者が来日し,また,同年11月には京都での代謝調節の日米合同セミナーに,J. Monod,E.R. Stadtman らが来日したことは,教室員にとって大きな刺激となった。

かつての A. Kornberg 研究室からの直輸入であるランチセミナーは,月〜金曜の毎日の正午から1時間の文献紹介セミナーで,「剣道の道場のような劇しさで切磋琢磨がくり返され,その大きな特徴は,沢山の論文を紹介して知識をひろめるのが目的ではなく,ひとつの論文について,方針のたて方,実験の内容,結論を導くに至ったプロセスなどを,批判的に読む実践的訓練」(早石 修執筆の京都新聞連載記事より)であった。正午になると3階のセミナー室から聞こえてきた豆腐屋のベルの音は,忘れ得ぬもののひとつである。
 
上記の3助教授時代はおよそ5年にわたり,大別4の研究グループがあって,助教授,助手,大学院生のほかに,学内,他大学,会社,外国からの種々の身分の研究者たちが集まっていた。特筆すべきことは,京都大学医学部の学生が放課後に教室に出入りし,それぞれが強い影響を受けて,つ生化学に限らず多くの分野でその後に活躍していることである。
西塚泰美を中心とする“トリプトファングループ”は,市山 新,中村重信(広島大医教授),池田正之(元東北大医教授・京都大名誉教授),出口武夫(元東京都神経科学総合研部長),伊地知浜夫(京都府医大名誉教授),小山内 実(元金沢大教授),大津英二(北里大医助教授),城戸 亮(元和歌山医大教授),辻 力(和歌山医大教授),野村純一(三重大名誉教授)らが,妹尾四郎(元サントリー研究所長)と徳山 孝(元大阪市大教授)の協力を得て,NAD の生合成およびその調節とセロトニン生合成の研究を展開し,さらに上田國寛(京都大化研教授),本庶 佑(京都大院医教授),中沢欽哉(元愛知医大教授),吉原紘一郎(奈良医大教授),武田誠郎(元広島大医教授),山村博平(神戸大医教授)らによりポリ(ADP-リボース)の発見やジフテリア毒素による ADP-リボシル化の発見へと進んだ。“酸素添加酵素グループ”では,野崎光洋,井唯信友,小沢和恵(滋賀医大学長),小島 豊,小林修平,中沢晶子,藤沢 仁(旭川医大教授),小野克彦(元愛知がんセ),堀 和子(兵庫医大助教授),岩城正佳(愛知医大教授),医学部学生の森 正敬(熊本大医教授)らが,芳香環を開裂する二原子酸素添加酵素を細菌から精製結晶化して,とくに鉄の役割を追求した。一方,山本尚三,牧 良孝(元武田薬品審議役),山内 卓(徳島大薬教授),丸山清史(岐阜大工教授),藤原兌子(京都女子大家政教授),岡本 宏(東北大医教授),医学部学生の武田博士(松江赤十字病院院長),伊藤春海(京都大医助教授)らは一原子酸素添加酵素を研究し,とくにフラビン酵素を精製結晶化して,その酸化酵素活性を見いだした。徳重正信をリーダーとする“アロステリックグループ”では,スレオニン脱アミノ酵素のアロステリック効果を研究し,当時活発な研究分野であった代謝調節について酵素レベルでの先端的な研究を推進した。中沢 淳,静田 裕(高知医大教授),平田雅春(元塩野義製薬研次長),山崎光郎(元三共発酵研所長),上原悌次郎(京都大名誉教授),井手 節(元塩野義製薬研開発副本部長),黒沢 淳(元塩野義製薬研究部長),佐伯行一(滋賀医大教授),井上謙一郎(岐阜薬大教授),岡崎武志(元和歌山医大助教授),田辺 忠(国立循環器病センター研部長),医学部学生の稲垣千代子(関西医大教授)らが共同研究者であった。橘 正道は伊藤和彦(京都大医教授),寺田雅昭(国立がんセ総長),静田 裕,中西重忠(京都大院生命科学教授)らを共同研究者として,ピリミジン生合成の調節を中心に研究を進めた。
 このころから西塚泰美をはじめとして,早石教授着任以降の門下生たちの留学が始まり,それぞれの将来への志向を考えて,多くのノーベル賞受賞者を含む欧米の著名な研究室へ留学した。どこそこへは誰かが行ったから自分は行きたくない,別のところを選ぶ,という風潮もあり,早石研の出身ということがこのことを可能とし,また広範な分野で皆が今日活躍している理由でもある。
 昭和43(1968)年の学生による東京大学の時計台占拠と機動隊導入という事態となった大学紛争は, やがて京都大学にも波及し, 昭和44 (1969) 年に入って学生の授業ボイコット, さらに 助手大学院生闘争委員会による研究ストップの決議を経て, 5月14日には医学部南北の門が封鎖 され, 教授は立ち入れなくなった。助講会や助院闘などの横の組織や医化学教室内で, 学生によ る研究室の封鎖と破壊を懸念しつつ, 来る日も来る日も講座制, 学位制度, 教育カリキュラムな どについて甲論乙駁が続いた。この間に学生は中核派・革マル派・社学同・反帝学評・民青など のセクト間の論争や内ゲバで, 大学構内は荒廃化した。9月21日に総長は機動隊導入を決意し, 医学部の封鎖は解除され,助院闘は12月8日を期して研究再開を決議した。また,学生の授業もレベル-システム制でもって再開された。その後も,沼教授がカリキュラムのチェック制で,また,早石教授が産業医科大学設置問題で追求され,また,研究廃棄物が社会問題化して教室員一同が肥柄杓で溝の泥を浚える一幕もあった。
 昭和45(1970)年から4年間,早石教授は東京大学医学部栄養学講座教授を兼任し,市山 新が講師となり,高井克治(元京都大医助教授,元東京大医教授),倉科喜一(元金沢大助教授)が助手というスタッフで,細菌のアデニル酸シクラーゼなどが研究された。
 そのころ国公立大学に生化学第二講座が開設されるようになり,この潮流に乗って西塚泰美が神戸大学,橘 正道が千葉大学のそれぞれ医学部生化学第二講座の教授として転出した。京都大学の医化学第二講座教授は早石教授の併任がおわって,ドイツから沼 正作が帰国して専任となった。(以下「沼教授時代」参照)。
 昭和50(1975)年前後から各県に医科大学が順次新設され,それぞれ教授として,市山 新が浜松医科大学でトリプトファン水酸化酵素,藤沢 仁が旭川医科大学で脳のカルモジュリン依存性キナーゼ,野崎光洋が滋賀医科大学で二原子酸素添加酵素,静田 裕が高知医科大学でポリ(ADP-リボース),さらに石村 巽が慶応大学でシトクロム P-450の研究を開始した。京都大学の早石研では,平田扶桑生(米国ウェイン州立大教授),吉田龍太郎(大阪医大助教授),谷口武利(高知医大助教授),園 政憲(米国南カロライナ大準教授)らのインドールアミン酸素添加酵素のスーパーオキシドとの反応性やインターフェロンによる酵素誘導が追究された。また,助教授の山本尚三は小野薬品から派遣された宮本 積(日本たばこ生物研所長)とともにプロスタグランジン生合成にかかわるシクロオキシゲナーゼを世界に先駆けて精製することに成功し,荻野誠周(元愛知医大助教授),吉本谷博(金沢大医教授),大木史郎(日本たばこ産業医薬事業部臨床開発部長),渡部紀久子(東亜大院総合学術教授),清水孝雄(東京大院医教授),近藤規元(小野薬品創薬研所長),医学部学生として福井 清(徳島大分子酵素セ教授)らが,種々のプロスタグランジンやトロンボキサンの合成酵素の単離同定を進めた。さらに,ポリ(ADP-リボース)の合成・分解酵素の精製とヒストンの ADP-リボシル化部位の同定などが,上田國寛,岡山博人(東京大院医教授),福島雅典(愛知がんセ病院副部長),岡 純(国立健康栄養研室長),川市正史(奈良先端科学技術大学院大バイオサイエンス教授),井階幸一(京都大院医助教授),静田 裕,伊藤誠二(関西医大教授),医学部学生の中尾一和(京都大院医教授),杉本哲夫(関西医大教授)らによって展開された。東京大学から移った高井克治は成宮 周 (京都大院医教授), 野田洋一 (滋賀医大教授)らとともに, 土壌菌から得た新規のトリ プトファン側鎖切断酵素が, ペプチドに含まれるトリプトファンと反応することを見いだした。
 昭和50(1975)〜60(1985)年の人事移動で,中沢 淳が千葉大学講師から山口大学の医学部生化学第二講座教授となり,プラスミド遺伝子と動物アデニル酸キナーゼ遺伝子の研究を進め,岡本 宏は富山医科薬科大学の医学部生化学第一講座教授として糖尿病発症機構と取り組み,のちに東北大学の医学部医化学第一講座へ転じた。中沢晶子は山口大学の医療短大を経て医学部微生物学講座を担当し,細菌の芳香環酸素添加酵素の遺伝子発現の研究から,ヘリコバクターピロリの研究を展開した。また,森 正敬は千葉大学から熊本大学の遺伝研究施設教授として,ミトコンドリア形成に分子生物学的なアプローチをした。山本尚三は昭和54(1979)年に徳島大学の医学部生化学講座教授に就任し,動物のリポキシゲナーゼの生化学的・分子生物学的研究に移っていった。
 昭和54(1979)年に,高井克治が助教授となり,早石教授がプロスタグランジン D2 の未知の生理的機能に興味をもつとともに,清水孝雄,成宮 周,渡辺恭良(大阪バイオサイエンス研部長),渡部紀久子,裏出良博(大阪バイオサイエンス研部長)らとともに,のちの睡眠研究に至る基礎的研究が蓄積された。
 昭和58(1983)年3月に早石 修は“失敗は成功のもと”と題する最終講義でもって京都大学を定年退官した。かつての強者どもの夢の跡の医化学・薬理学教室の建物は,きれいに取り払われてしまった。しかし,そこで育った多くの人たちはそれぞれの個性を活かして,広い分野で活躍している。
 (本稿は,「蛋白質核酸酵素」第42巻第12号の特集「日本の生化学研究者の系譜」に寄稿したものに,削除,加筆したものである。)(山 本 尚 三 記)