化学研究所医化学系研究室

[大正15(1926)年10月〜昭和56(1981)年2月]

(前田 鼎・内野仙治・早石 修 教授時代)

 化学研究所は「化学に関する特殊事項の学理及びその応用」を研究することを目的に大正15(1926)年10月に官制公布された京都大学最初の付置研究所である。医化学教室は,この研究所とその設立以来長年にわたって,極めて深い関係を保ってきた。化学研究所の母体は,第一次世界大戦で輸入が途絶えたサルバルサンの製造法を研究するため大正4(1915)年に設立された理科大学附属化学特別研究所であるが,前記官制によって昭和 2(1927)年「化学に関する特殊事項の学理及びその応用」を研究することを目的に大拡充され,新しい研究所として発足した。発足当時研究室は8つあったが,その1つが前田 鼎(医化学系)研究室であった。まだまとまった建物のなかった化学研究所では,これら8研究室を理,工,医,農各学部に分散して置き,主任教授(所員と呼ばれた)も全員学部教授(一部助教授)の兼任であった。2年後大阪府三島郡盤手村字古曽部(現高槻市,大阪医科大学の構内)に研究室本館が竣工するとともに,専任教授が置かれるようになり,その第1号として,昭和 7(1932)年6月,当時医化学の助教授であった内野仙治が選任された。
 前田研究室は昭和16 (1941) 年まで続き, 前田教授の第三高等学校転出とともに消滅したが,
内野研究室は同教授が東北帝国大学教授として赴任した間(昭和13年〜16年)も,また昭和16年12月京都帝国大学教授(医化学)として帰任した後も存続し,昭和34(1959)年医化学講座後任の早石 修教授へと引き継がれた。この間内野教授は,昭和23年9月〜28年12月の5年余にわたり,化学研究所所長を兼務した。
 研究テーマとしては,前田研究室の発足当時「酵素の特殊性に関する研究」と「内分泌の化学的研究」が掲げられ,後に「細菌および糸状菌の化学的研究」が主テーマとなった。一方,内野研究室では発足時から,「臓器(組織)の生化学的研究(後に病体生理化学)」が中心テーマで,後年「腫瘍組織」「リン脂質」「蛋白分解(酵素や産物)」の研究が追加された。
 これら医化学系研究室は,歴代の教授以下,助教授,助手,研究嘱託,研究員(嘱託,後に副手),研究補助(雇員)のスタッフが研究上も職席上も医化学教室と行き来しながら運営されたが,内野教授が医化学教授となって以降,実験・研究は専ら医学部医化学教室で行われるようになった。助手ポストは内野教授時代に海住 優,吉岡政七から鈴江禄衣郎(元国立健康栄養研所長,昭和女子大院生活機構教授)へ,早石教授時代に鈴江緑衣郎,橘 正道(後に医化学第二講座助教授,千葉大学名誉教授),藤沢 仁(旭川医科大学教授)から上田國寛(京都大学化学研究所教授)へと引き継がれ,上田の米国留学中は東京大学から招かれた高井克治(後に医化学第一講座助教授,東京大学名誉教授)がその席を占めた。この間早石研究室は,昭和39(1964)年に公布された「国立大学付置研究所の部門に関する省令」に基づき,昭和41年設置された分子生物学部門の一部となった。上田は昭和51(1976)年に帰国後化学研究所助手に復職したが,昭和56(1981)年3月医化学の講師として医学部に転出するとともに,このポストは化学研究所に返還され,医化学との長年の交流が幕を閉じた。
 それから10年後,平成5年に至って,化学研究所が大部門制に改組される中で,医学系研究室の復活案が浮上した。選考の結果,当時医学部臨床検査医学の助教授であった上田が選出され,平成 6(1994)年4月から新設の生体反応設計研究部門III(生体反応制御領域)を担当することになった。これ以降,上田は大学院医学研究科の内科系臨床生体統御医学講座に所属し,分子臨床化学領域を兼担するとともに,旧医化学教室の担当する分子生物学の学生講義や演習の一部を受け持っている。これは,化学研究所医化学系研究室の形を変えた復活といえるかもしれない。現在同部門には,スタッフとして上田のほかに田中静吾(助教授,神経内科出身)と安達喜文(助手,京都大ウイルス研出身)がおり,ようやく実験設備の整った研究室で遺伝子診断,ポリ(ADP-リボース),アルツハイマー病,白血病をテーマに研究を進めている。(上 田 國 寛 記)