ノックアウトマウスの作製、これは現代生命科学の常套手段になりつつある。我々の研究室でも、否応なしにこの技術への対応を迫られた。 生理学研究所にいたころから、いくつかの我々のみつけた遺伝子の破壊を試みはじめた。 しかし、研究室には何の蓄積もない。 ボスは、この遺伝子を潰そう、と言うだけだから簡単、すなわち、現場の人たちにとってはたちの悪い技術である。
土井さんが、大阪大学医学部の内科から生理研に来たのは、丁度ERM蛋白質の全容が明らかになりつつあった時期で、エズリン、ラディキシン、モエシンのcDNAが取れた時であった。 丁度、当時助手の伊藤さんを中心にノックアウトの技術を研究室に導入しようと試みていた時期だったので、土井さんはERM蛋白質遺伝子のノックアウトをやろうということになった。 3つのうち、どれを潰すかと考えたとき、遺伝子がX染色体にあって、ほぼユビキタスに発現しているモエシンがまず最初だろうということになった。
比較的順調にノックアウトES細胞がとれた。 X染色体上に遺伝子があり、ES細胞はオス由来であるから、得られたES細胞はすでに完全にモエシンを欠いていることになる。 そこで、まず、旋回培養によりエンブリオイドボディーを作ってみた。 ここから、土井さんの苦難の道が始まった。 いろいろ調べたが、コントロールと何の違いもない。 モエシンは血管に多く発現しているが、モエシンのないES細胞からでも血管は立派にできる。 本当にモエシンの遺伝子が潰れているのかといった、馬鹿げた疑問も浮かんだが、ノザンやウエスタンの結果は間違いない。 そうこうしているうちに、野田哲生先生のグループとの共同研究で、ノックアウトES細胞がジャームラインに通り、モエシンのないマウスが生まれ始めた。 いくら待っても、いくら調べても、コントロールマウスと何の違いもない。 エズリンとラディキシンの発現量が増えている訳でもない。
正直に解釈すれば、モエシンは、マウスが生きていく上では必要ないことになる。 そんな馬鹿な! これまでのいろいろな実験からERMはかなり重要な蛋白質群である。 モエシンの遺伝子はショウジョウバエにまで保存されている。 血小板は、ERMのうちモエシンが大部分であるが、ノックアウトマウスから血小板をとってきて凝集能等を調べても、何の異常もない。 I have no idea.である。
何かの異常に気付かないだけであろうか? そうであろう。 野生の環境では、モエシン欠失マウスは何か生命力に欠けるところがあるのであろう。 でなければ、遺伝子が保存されないだろう。 でも、いったい何なのだ!
このようないわゆるノンファノタイプの論文は書きにくい。 まとめてある雑誌に送ったらフェノタイプがないなら駄目とかえってきた。 フェノタイプがないのもフェノタイプではないか! 反論したが駄目であった。 そこでJBCに送ったら、今度は2人のレフリーがおもしろがってくれた。
とにかく、ERMの機能は何のなのだ? 仕方ないから、エズリンもラディキシンも潰してみるか、とボスは考えた。