つぶやき 〜3〜  

                  1999年新春


「先生」と「さん」  

医学部を卒業して基礎へ進む人間は限られている。 目の前にいる患者さんの苦しみを助けてあげられ、そして医者として高い社会的地位が保障されるという選択枝が選べる状況にあって、汚い基礎の研究室(今は決して汚くないが、私の学生時代には、とても汚かった)に24時間こもって将来の何の保障もない基礎研究生活に進もうとする人間なぞ変人に違いない。 私自身そういう変人であることは認めるが、私以外にも結構この手の変人がいるということは、基礎研究のどこかに、人間のきわめて弱いところをくすぐる魅力(魔力)があるに違いない。 我々変人達は、ある意味では、この魅力に抗しきれない、よく言えば純粋な人間達である。

 そもそも、このような変人達は単独行動を好む。 しかし、今時のライフサイエンスは、ある程度の数の研究者がチームを組んで研究を進めなければ、なかなか残された難問を解けないし、世界の研究者の先を行くことは難しい。 すなわち、変人達がチームを組まざるを得ないのである。 そこで、いわゆるボスの役割が結構重要になってくる。 変人チームをどのようにオーガナイズすれば、最大限の成果が得られるのか? 今、そういった意味で成功しているチームリーダーのタイプを眺めてみても、どのようなやり方が良いのかという単純な答えは得られない。 あるボスは、徹底的に管理して、個を基本的には殺す方向でグループとして成功に導いている。 また、あるボスは、グループとしての統合性を失わない範囲で個を自由にするという方向でグループとしての成果を得ようとして成功している。 個を伸ばすとか、アイデアの多様性を生むという意味では間違いなく後者が良いが、グループ全体としての効率は、圧倒的に前者がよい。 この両極端のどこにボスとしての自分のスタンスを置くか、これが現代医学生物学のボスの最大の悩みであるが、成功しているボスに共通することは、自分のスタンスを決めた後はそれに徹底して、前者にも後者にもブレないということであるように思える。 これは実際にやろうとすると想像以上に大変で、とにかく隣の家の芝は青く見えるのである。

 私自身は、いろいろな経緯でいわゆるボスをやる状況になった時に、自分の好みとして「グループとしての統合性を失わない範囲で個を自由にするという方向でグループとしての成果を得る」方向のサイエンスをやりたいと思った。 私がこの方向を選んだのには大きく2つの理由がある。 一つには、「徹底的に管理して、個を基本的には殺す方向でグループとして成功に導く」には、ボスがきわめて勤勉でなくては誰もついてこない。 これは私にはできない。 2つ目に、いろいろなバックグラウンドの若い発想が集まってはじめて本当に新しいことができると信じていたからである。 だが、実際にこのような精神でグループの運営をやっていくのは、とても苦しい。 そもそも個々が勝手にやるといういわゆる放任主義と、自由な個が集まって個以上のものをグループとして生み出すというのは根本的に違う。 また、周りの「徹底的に管理して、個を基本的には殺す方向でグループとして成功に導いている」グループが極めて効率よくデータを連発する中で、効率の悪いこの方針を堅持することも易しくはない。 グラッ、グラッときながら、必死でもがいている日々が続いてきたし、続いているように思う。

 それでも、何とか新しい方針のグループ運営を求めて、いろいろな試みを行ってきた。 その一例で、私が意外に大切だと実感していることを最後に挙げよう。 それは、研究室の中で誰をも「先生」と呼ばせないことである。 私達の研究室では、新人の大学院生の時から、決してスタッフを「〜先生」とは呼ばせない。 一日目から「永渕さん」「米村さん」そして「月田さん」である。 理学系から来た学生さんは比較的すぐに慣れるが、病院で同級生まで「先生」と呼び合っている「先生」達は慣れるまでにかなり時間がかかる(戻る時にはもっと困難を伴い危険らしいが)。 この「先生」と「さん」の違い、大したことがないようで、サイエンスのスタンスにかなり違いが出るというのが私の意見である。 研究者としての根本は、経験のあるスタッフであろうと、全くの素人である新入生であろうと、まったく平等であるし、対等に意見を言うべき、そして聞くべきである、というのがポイントである。 実は、この方針は、生物物理学の大沢文夫「さん」のグループから私が若い時に学んだ結果で、オリジナルなものではない。 大沢文夫さんは、ご存じの方も多いように、生物物理学の大「先生」で、私が大学院生のころには、アクチンの重合の理論などで国際的に有名な大権威で、多くの優れたお弟子さんを輩出されていた。 私などは近寄り難かったのであるが、医学生物分野の学者と違った、なにか飄々とした雰囲気にあこがれて、よく大沢スクールの集まりに潜り込んでいた。 ある臨海実験所でのサマースクールでのことだったと思うが、大沢さんが中性子散乱か何かのことについて短く話をされた時、大沢グループの修士一年の学生が「大沢先生」と質問をした。 すると、あの穏和な大沢さんがキッと睨んで「先生というな!」と一喝されたのである。 その時はただびっくりして意味が分からなかったのだが、その後に、大沢スクールの人たちが、そのキャリアーとは関係なく実に真摯な態度で学問について大沢「さん」を交えて議論している様子を見て、何となく「先生」と「さん」の違いが分かったような気がした。 その後、研究グループを持つようになってから、大沢さんの真似をして「先生」と呼ばれると一喝するようになった。

 人間が集まれば、ややこしいことの方が多い。 「先生」vs「さん」のように、一見一寸したことで、サイエンスの質も違ってくる。 変人同士が集まって頑張ってみて良かったなと思えるようなグループ作りは、なかなか奧が深い。