内野教授時代

[昭和16(1941)年12月26日〜昭和32年(1957)年3月7日]

 前田教授が昭和16(1941)年4月に第三高等学校校長に就任したので,その後任として,当時東北帝大医学部医化学講座教授であった内野仙治が,医化学講座第3代教授に就任した。助教授には,前田教授時代からの明石修三がいた。昭和14(1939)年に発足した臨時附属医学専門部の教育も医化学教室の仕事の一つであり,昭和16(1941)年11月には,助手であった中村正二郎(昭和13年京都帝大医卒)が医専の講師,ついで助教授となり,昭和19(1944)年4月に山口県立医学専門学校教授(後に山口大学長)として転出するまで教育・研究において教室を支えた。
 この頃は太平洋戦争が勃発し戦時色が濃厚となった時で,応召により教室を離れる者もあり,教室員の数が減少した。さらにその後,敗戦から戦後数年の混乱の十数年間は,研究費はもちろんのこと,普通の薬品類や欧米の文献も入手困難となり,当時の研究者には共通のこととはいえ,誠に不本意なみじめな状況下で教育や研究に従事することを余儀なくされた。当時は,経費のかからないことが第一で,動植物を問わず,身近で入手できるものを材料として細々と研究が続けられた。
 研究業績では,昭和16(1941)年から昭和20(1945)年までに,ドイツ語の論文が60編ほどあり,その多くは Journal of Biochemistry と Tohoku Journal of Experimental Medicine に掲載されている。昭和21(1946)年から昭和32(1957)年までは発表論文が約60編あり,これらは初期にはドイツ語で,後には英語で書かれている。研究内容としては,酵素化学(プロテアーゼ,アミラーゼ,アシラーゼ,カーボヒドラーゼ,リパーゼ,ホスファターゼ,腫瘍の酵素, 細菌の酵素など), ビタミン (B1, C,リボフラビン,ニコチンアミドなど),その他物理化学および分析化学に関するもの,有機化学に関するものなどがある。後年にはアルギナーゼ,プロテアーゼ,ペプチドの不斉合成ならびにアミノ酸の分割,ビタミン B1 およびその誘導体の生化学的研究に関するものが多く発表されている。

 内野教授在職15年の間に約40名の教室員が医化学教室で教育を受けている。助教授は戦後も引き続き明石修三が,昭和27(1952)年9月に名古屋市立大学医学部医化学教授(後藤基幸教授の後任)として転任するまで勤めた。講師には,まず小野山 実(昭和33(1958)年5月に関西医大教授として転出),ついで米谷俊雄(昭和35(1960)年10月大阪薬大教授として転出)が就任し,医化学の教育・研究に当たった。
 内野教授は,前田教授時代に化学研究所の教授を6年間勤めていて,化学研究所とも関係が深く,昭和23(1948)年から4年間同研究所所長を兼務した。内野教授は大学の管理運営にも力量を発揮し,昭和27(1952)年12月から2期4年間医学部長を勤めたが,その公正的確な処理は多くの人達から賞賛をうけた。昭和30(1955)年と同31(1956)年には滝川幸辰学長の事務代理を勤めている。

 内野教授は,日本生化学会に創立の時以来参加し,役員も務めていたが,昭和24(1949)年4月には,会頭として戦後2回目にあたる生化学会第21回総会を医化学講堂で開催した。さらに,昭和30年(1955)年4月にも,会長として生化学会第27回総会を京都において開催している。
 戦後の研究の中で注目に値する仕事に,明石助教授が中心となって行われた 32P 製造の実験がある。昭和25(1950)年に,米国医学者が日米医学教育協議会のために訪日した。同年8月に医化学講堂でその西日本部会が催され,ニューヨーク大学生化学教授の Cannan 博士が5日間にわたり米国医学教育の現状および生化学研究へのアイソトープの応用を紹介した。これに触発されてか,昭和27(1952)年に京大では理・医学部の有志により放射性同位元素研究会が結成され,32P の作製,測定,生物実験の共同研究が行われた。CS2 の S を 32S(n, p) 32P の核反応で 32P に変え,HNO3 と I2 で酸化し H332PO4 に変え,Na2HPO4 を担体として加えて取り出し,一定の比放射能の試料を得ている。これは辛うじて3匹のマウスに注射し,生体内分布と排泄を測定するに足るだけの量であ
ったという。


成果は昭和26(1951)年8月に学内で発表されたが,この研究は日本で行われた最初のアイソトープの製造とその利用実験であろう。しかし,その2ケ月後の10月から米国より 32Pの輸入が許可され,それを使った実験研究が日本各地で急速に進展していったため,アイソトープ製造は打ち切りとなった。しかし,細心の注意を要する実験に果敢に挑んで行ったその心意気に敬意を覚える。
 内野教授は大正 7(1918)年の京都帝大医科の卒業であり,荒木寅三郎教授の講義を聴講した最後の学生であった。大正 8(1919)年1月から医化学教室に入室したため,既に総長となっていた荒木教授から直接研究指導を受けたわけではない。しかしながら前田教授を通して,また当時の医化学教室には多くの先輩がいたため,間接的に荒木教授の学問から多大の影響を受け,研究の中心に酵素学を置いたように思われる。内野教授は昭和 4(1929)年から同 6(1931)年までミュンヘン大学 Heinrich Wieland 教授に師事した。医化学教室からは,清水多栄が Wieland のもとへ留学していたので,その関係から同教授の門をたたいたものと思われる。
Wieland は胆汁酸の研究(1927年ノーベル化学賞受賞)の権威であるが,同時に生体酸化の脱水素学説を提唱して Otto Warburg との間の論争でもよく知られているところである。そしてこの脱水素学説に対する反証を酸素添加酵素の発見により提起したのが,他ならぬ医化学教室第4代教授の早石 修であった。さらに付け加えると,医化学第二講座沼 正作教授の師 Feodor Lynen 教授(1964年ノーベル医学・生理学賞受賞)のそのまた先生に当たるのがWieland 教授である。Hoppe-Seyler 教授は,1872年ストラスブルグ大学に生理化学講座を創設し,ここを世界の生化学のメッカとしたが,晩年の Hoppe-Seyler 教授に師事した荒木寅三郎は,その高弟である Kossel 教授(1910年ノーベル医学・生理学賞受賞)にも学び,Hoppe-Seyler の学統を伝承した。その流れは医化学教室において前田,内野両教授に伝えられたが,教室創設60年にしてその系譜は早石 修が受け継いだ。これは決して断続的なものではなく,荒木教授の教えを受けた古武弥四郎が,大阪において独自のアミノ酸代謝研究を展開し,その教えが政山龍徳(大阪大微生物病研,熊本医大医化学教授)から須田正巳(大阪大医教授,愛媛大医学部長)を経て早石 修に受け継がれたとみてもよい。このようにみていくと,学問の系譜はさながら織りなす綾の如く,縦横の糸が繋がりあっていることに気付き,感慨を覚えるところである。(中 澤 淳 記)