内野 仙治 (うちのせんじ)

[昭和16(1941)年12月26日〜昭和32年(1957)年3月7日]

 明治27(1894)年3月7日山口県都濃郡下松町(現下松市旭町)において医家に生まれた。山口県立徳山中学校を経て,第五高等学校を大正 3(1914)年に卒業した。大正 7(1918)年に京都帝国大学医学部を卒業し,内科学の島園順次郎教授の門をたたいたが,同教授に医化学の必要性についての示唆を受け,前田 鼎教授の医化学教室へ入室した。大正 9(1920)年に助手となり,同11(1921)年5月には助教授に昇任した。昭和 4(1929)年に在外研究員としてドイツへ留学,ミュンヘン大学で Heinrich Wieland 教授に師事した後,フランス,アメリカを経て昭和 6(1931)年8月に帰国した。昭和7(1932)年に医学博士の学位を受け,同年6月には京都帝国大学化学研究所教授となり,内野研究室を主宰した。昭和11(1936)年3月からは長崎医科大学医化学講座教授を兼任したが,同13(1938)年6月にいたり東北帝国大学医学部医化学講座教授に就任した。前田 鼎教授の第三高等学校長転出の後,昭和16(1941)年12月に医化学講座第3代教授に就任した。昭和23(1948)年9月から同28(1953)年12月までの間,京都大学化学研究所長を,また,昭和27(1952)年12月からは京都大学医学部長を2期4年間勤めた。昭和30(1955)年と同31(1956)年には滝川幸辰学長の外国出張中に京都大学学長事務代理を併任した。昭和26(1951)年4月から京都大学結核研究所教授を,また,同30(1955)年6月からは京都大学化学研究所教授を併任し,同32(1957)年3月停年退職,京都大学名誉教授となった。昭和32(1957)年7月には,名古屋市立大学学長に選ばれたが,わずか2ケ月で同年9月21日急逝。享年63歳。