断想 昭和22年〜29年の医化学教室の思い出

佐々木   正   
 決戦兵器の研究という名目で戦災を受けていない京都大学に陸軍兵器行政本部から派遣されたまま終戦をむかえた私は,研究生活を続行したい希望から当時医学部薬学科の教授であった高橋西蔵先生が旧制二高の先輩である縁でそこの助教授であった西海枝東雄先生の部屋で好きな有機合成実験をする事に決ったが,先生が昭和25年秋九大教授に栄転される前に当時医化学教授の内野仙治先生のところ医化学の3階に移った。それは私の旧制二高時代先生も東北大学医学部教授でおられ,以前から存じ上げておった奇しき因縁による。その当時医化学教室には助教授明石修三,講師小野山実,助手伊藤友喜,嶋谷正夫,細田 勉先生,2階に東大理学部動物を出られた米谷俊雄さんの他に今枝信子さんがおられたと記憶している。昭和23年には新たに新進気鋭の久野滋,井唯信友,村地孝さんが大挙来られ急に賑かになった。忘年会を兼ねた内野先生を囲む懇親鋤焼パーティー,細田先生の宇部医大への壮行会,正月小野山先生のお宅に皆で参上し大きな白い犬にびっくりしたこと,嶋谷先生の御宅を訪問したこと,など走馬燈のように思い出される。内野先生は小柄だが古武士の相があり,高聲で話をされ耳の毛が長く朝の挨拶をするとき帽子をとって頭を後方にかたむける独特のお姿をされたこと,先生の御部屋には立派な墨書の掛け軸がかかっていたことが妙に印象に残っている。当時医薬品の合成を研究していた私は医化学の図書の完備して立派のことに一驚し当時の薬学科のそれより利用度は高かった。昭和29年私はフルブライターとして渡米したが,渡米の挨拶に先生の御宅に参上したのが今生の別れとなった。当時 NIH の部長をしておられた早石修先生にお目に掛かる機会があり帰国後京大で再会した。また井唯兄とはアメリカのフィラデルフィアのペン大学,また京都に戻られてお亡くなりになるまで親しいつきあいを持った。また私が昭和39年より名古屋大学の工学部の教授をしていた当時今は亡き村地さん,前述の今枝さんと会を持ち旧交を新たにしたこともあった。
 医学部出身でもない私が奇しき因縁で医化学教室の皆様にお世話になり色々な所で再会し現在に及んでいる。私のような立場の異端者一人位あってもよかろうと考え敢えて筆をとった次第で,本稿を草するに辺り色々御教示御指導をいただいた金沢の久野滋兄に謝意を表す。私にして既に齢78才,教室の思い出の人もすでにこの世にいないことを考えると感無量のものがある。(1947.12〜1954.8 名古屋大学 名誉教授)

 

生 化 学 夜 明 け 時 代

久 野   滋   
 私は昭和23年秋に京大医学部を卒業し,1年間のインターンを受けて翌24年秋に医化学教室に入りました。インターンと言っても名ばかりで殆んど病院に出たこともなく,アルバイトとして舟岡省五名誉教授の実験助手として働いていました。舟岡先生は元々解剖学が御専門でしたが,化学特に無機化学の御造詣が深く,しばしば唖然とさせられる知識をお持ちでした。唯余りに無機化学に偏していられたので,医化学の勉強の準備としては差程役に立ったとは申せません。
 医化学に入った当時の生化学の知見は現在と比べて数十分の一程度で,既に生化学が生理学から独立して50年程の歴史があると言っても,未だ夜明け前の状態と申しても宜しいかと思います。更に米国と異なり,日本では戦争中は研究が殆んど停止状態であった為,米国との gap は歴然としたもので,当分の間は追いつくことは難しい様に思われました。加えて薬品,器具等も乏しく初歩的実験以外は行うことが難しい状態でありました。唯教室内では明石修三先生,米谷俊雄先生,嶋谷正夫先生方達から親切に教えて頂き,大変気持の良い雰囲気でありました。当時教室では各種の protease の精製が行われていましたが,材料としては無料で得られる牛のヒ臓,イチジク等で,精製法,測定法等は幼稚なものでさしたる結果も得られませんでした。しかし徐々に J.B.C. 等の文献が読める様になり,実体はともかく知識としては米国を中心とする研究が何の様なものであるかは,或る程度理解できる様になってきました。唯教室の赤字経営はひどく(多分現在も赤字と思いますが),2,3年前の薬品代価を辛うじて支払っている状態でした。戦前の教室の薬品納入は半井,中村の2商店が略同量扱っていましたが,中村商店は納入を中止したのに対し,半井は支払のおくれを気にせず,将来の回復を期待して,納入を続けてくれましたことは大変助かりました。
 昭和26年頃かと思いますが,日本の科学再興を助ける為,米国から著名な学者を招き(但し招待費用はすべて米国負担),近畿地区の各医大の生化学教授を対称とした集中講義が医化学講義室で行われました。十分理解できたとは言えませんが,若い人達にはかなり助けになったことは事実です。但し御長老方は全く分らないとぼやきながら,数日間の講義を熱心(?)に聞いておられた姿は印象的でありました。戦争の為大きな gap を生じ,それを乗り切るだけの体力,気力の無かった御長老方はお気の毒でありましたが,その後再興の為,子弟を積極的に留学その他のことで大変努力されたことは真に立派であったと思います。
 従って京大医化学で現代生化学(当時の)の研究が始まったのは早石先生御着任になってからと言えましょう。昔の生化学は生体内の物質の分離同定が主なるものでありましたが早石先生以降は dynamic な metabolism の研究から始まって,現在の molecular biology につながって来ました。当初の米国との gap に追いつくのに10年以上必要と思われましたが,1,2年の間90%近くまで追いついた感じで,後を追いかけることは真にたやすいことと思いましたが,残りの10%の差をつめることは難しく,現在でも個々の領域では対等となったものの全体的にはおくれは否めないと感じます。
 小生も金沢大学を停年になって既に9年になります。その間の分子生物の進歩を多少知っておきたいとの気持はありましたが,学問の進歩は真に速かで,最近は前大戦後の御長老方と同じ悩みを持つ様になりました。そろそろあきらめる時が来た様に思います。
(1949.10〜1964.2 金沢大学 名誉教授)

 


そ の 頃 の 想 い で

齋 藤 國 彦   
 私が鈴江緑衣郎,掘木和治の両君と医化学教室に入ったのは1952年,内野仙治教授,明石修三助教授の時代であった。研究のテーマは acylase でその基質の chloroacetyl-L-tyrosine を調製するため,1階の物置にあった繭 500 gm を 6N HCl で加水分解することから始まった。場所は助手の米谷俊雄先生のおられた第1研究室で,chloroacety-L-tyrosine の結晶化には大変苦労し,ガラス棒で擦っては冷蔵庫に入れ翌朝を楽しみに帰宅するのだが,来る日も来る日もべとうとした茶色の塊で憂鬱な毎日であった。あれこれ試みた後,acetone を加えて漸く結晶をつくり,融点や旋光度を測定した記憶はいまだに新しい。その後,家兎腎臓には chloroacetyl-L-phenylalanine だけでなく,D 体もまた可なり分解する活性のあることも解り,比較的面白く仕事をしていた。Acylase の意義については当時考える余裕もなかったが,アメリカでは Greenstein 一派が大量の L-アミノ酸を必要としたのであろう,合成アミノ酸のアシル誘導体を acylase を用いて光学的に分解していた。
 丁度その頃,明石先生が名古屋私立大学の教授に栄転され,私もその地で約5年生活することになった。従って京大医化学教室に在籍したのは僅かであったが,内野先生,その後任の早石修先生を始め,米谷,小野山,久野,村地その他多くの先輩,同輩の先生方,また立派な仕事をされた若い先生方からも教室の先輩であることだけで親しくしていただいたのは幸せなことである。
 明石先生は1927年の卒業で octopin の構造決定という有名な仕事があるが,旧医化学教室の建設には自ら設計図を書かれ担当の技師と共に,あの“御自慢”の研究室を建てられたこと,また初代の荒木寅三郎教授が自分の後任に何故富田雅次先生を推薦されなかったかなど,随分いろんなお話を伺ったものである。後年,かかる古い大先輩に関するいくつかの資料が遠藤中節先生(元神戸医大学長)より送られてきたが,本庶 佑教授を介して資料館に保存していただいた。
 名古屋に移り私の研究テーマも脂質と変わり,結局これが生涯の仕事となったのである。名市大での細菌脂肪酸特に枯草菌の iso-C15,iso-C17 酸の発見と同定,Dr. Hanahan の研究室で行った phospholipase A の精製,関西医科大学での phospholipase B や PAF の研究などである。
 内野先生は1957年春退官,7月には名市大の学長として着任されたが,思いもかけず9月21日急逝された。当日は週末と祭日が連なり,先輩の先生方との連絡も思うに任せず,新幹線もまだ無く,久野,村地両兄が到着されたのは翌お通夜の席であった。密葬,大学葬を終え,遺骨を胸に名古屋駅を去られる奥様を見送ったのは,同じ駅頭に先生をお迎えしてより僅か2ケ月後のことであった。その約1ケ月後,今度は希望に満ちて Dr. Hans Neurath のもとに留学される村地孝御夫妻を同じ駅頭に見送ったのである。下って1990年5月,その村地兄が関西医大の客員教授として初めて我々のセミナーに参加され,自分もまた calpain,calpastatin について得意満面に話されたのは亡くなられる数時間前のこと,まさに晴天の霹靂であった。
 医化学教室に入ってから約50年,いろいろの想い出もあるが予定のスペースも尽きたであろう。教室の益々の発展をお祈りする次第である。(1952.4〜1953.3 関西医科大学 名誉教授)

 


医 化 学 教 室 の 想 い で

鈴 江 緑衣郎   
 医化学教室を離れてすでに30年以上の年月が経過した。東京の国立健康・栄養研究所を定年退官してから昭和女子大学大学院に勤め,若い女性に囲まれながらまだ元気に勤めている。息の長い栄養学の基礎を教わった医化学教室には深く感謝している次第である。
1.屋上大文字鑑賞会
 毎年,8月16日,医化学教室の屋上から大文字の送り火を見学する懇親会が行われていた。当時の京都は今のように高層建築物が少なく,大文字,妙高,船形,鳥居と左大文字を除けばほとんど見えるので,まさに最高の見物の場所として新旧の医化学関係者が家族同伴で集まったものである。その後しばらくして,医化学同窓会は学会の開催場所で行われることとなり,家族とつき合いがだんだん少なくなったのは寂しい限りである。私が米国より帰国直後の大文字鑑賞会で,3才になったばかりの長女が当時新婚だった山本尚三夫人の白いレースのドレスを見て私にもあんなのを買ってとうちに帰ってからねだられたのを思い出す。
2.昼食セミナーについて
 早石グループの特徴は昼食時間に行われる文献紹介セミナーであった。まだ昭和30年代の初め,初めて順番に当たったとき見いだされたばかりの 5FU の話をして,ガンの攻略法にこういうこともあるのだなと考えたことを思い出す。その後東京の国立栄養研究所に移ったが,そこでは昼食時間は運動の時間としてテニスをする人が多かった。無理に部員を集め,毎日栄養学セミナーを行ったが,若い人に初めは大分恨まれた次第であり,やはりこういうことは早石先生でないと旨く行かないものだと思った。
3.国立健康・栄養研究所
 医化学教室からは多士済済の人物が多くの大学の教授として出ていったが,初めから医化学教室の関係者によって作られた国立の研究所は国立健康・栄養研究所だけである。設立は大正9年であるが,初代の所長佐伯矩博士(1876〜1959)は第三高等学校医学部(現岡山大学医学部)を卒業後,京都帝大医化学教室で荒木寅三郎教授のもとで栄養学の研究を行い,学位取得後米国エール大学に留学した。当時のエール大学には Osborne,Mendel,McCollum,Lusk,Chittenden などの有名な栄養学者が研究をしていた。実際の指導者は Mendel,Chittenden 両博士である。明治43年帰朝,大正9年,内務省所管の国立栄養研究所を開設した。この研究所には医化学出身の田村盈之輔部長や手塚朋通部長などが在籍され,所長としては医化学出身の杉本好一博士や,私,小林修平先生などがその任に就いた。私が所長になったときには,丁度定年で全部長がやめてしまったため,後任人事を行ったが,早石教授の電話による指示で医化学関係者外からも阪大の市川富夫部長や阪医大の山口賢次部長そのほか大勢の多くの優秀な人材を集めることができ,大いに感謝している次第である。
(1952.4〜1967.12 昭和女子大学大学院 生活機構研究科 生活機構学専攻 教授)

 


わが心の故郷 −医化学教室での25年

早 石   修   
 1958年3月,約10年に及んだ滞米生活に別れを告げて,私は京都大学医学部医化学教室の教授に着任した(図1)。その年,大学院の一期生として入学した西塚泰美君を含めて,教室員の総数10名足らずであったが,早速,新しい研究室の活動が始まった。毎日,正午から1時まで行われたランチセミナールは教室員の他に,薬学部の鈴木友二教授,理学部の香月裕彦助教授,ウィルス研の渡辺 格教授のグループなど外部の研究者も遠くから積極的に参加して,連日侃々諤々の議論が続いた。このセミナールは私の在米時代の恩師 Arthur Kornberg の研究室の伝統を継いで,単に新しい論文内容を紹介する,いわゆるジャーナルクラブではなく,研究テーマの選択,実験の進め方,実験結果の批判的な評価,学術論文としての纏め方や発表の仕方等を,厳しく批判的に読む実践的な討論の場であり,よく剣道の道場に例えられた。単なる物識りになるための場ではなく,独創的な論文,優れた科学的な研究業績とは何か,如何にして作られるかという事を徹底的に議論する場であり,後年医化学教室から多くの俊秀が輩出したのは,このランチセミナーの経験が大きく貢献したと信じている(図2)。

セミナール室の一隅には古武弥四郎先生の有名な「本も読まなくてはならぬ,考えてもみなくてはならぬ,しかし働く事はより大切である。凡人は働かなくてはならぬ,働くとは天然に親しむことである。天然をみつめる事である。こうしてはじめて天然が見えるようになる」が掲げられていた(図3)。古武弥四郎先生は大阪府立医学校(大阪大学医学部の前身)の卒業生であるが,京都大学医学部医化学教室の初代教授,荒木寅三郎先生に師事され,助手を務められた。大阪大学教授になられた後,昭和の初期にトリプトファン代謝の研究で国際的にも著明な業績を残され,当時わが国生化学界の第一人者であった。私は阪大,医学部で古武先生から生化学の講義を受けているので,その意味では荒木寅三郎先生の孫弟子ということになる。古武先生は古武語録と言われる多くの名言を残されたが,中でもこの一文は私の座右の銘として今も愛誦している。翌年,東京大学から橘 正道,小倉安之,杉田良樹,武田薬品から杉野幸夫,木幡 陽,第一外科から小沢和惠,大阪市大から徳山 孝の諸君をはじめ大学院生として畑中正一,小島 豊,塚田欣司,金綱史至君らが加わり,教室は賑やかになった。

一方,研究費については,文部省の科研費以外に NIH や Jane Coffin Child's Memorial Fund その他,米国からのグラント等のおかげで研究室の大改造が行われ,最新の機器や設備が設置された。さらに Rockefeller Foundation からの寄付金で医化学教室の中庭に放射性同位元素実験室が完成し,早くも NIH 時代と同様のよい研究環境で能率良く実験が可能になった。その間,京都大学の先輩,同僚や原 現吉氏や川村恒明氏はじめ,文部省当局の御厚意とともに多数の米国の友人や財団などから頂いた物心両面にわたる援助によって,当時としては日本には珍しい国際的なハイレベルの研究環境が急速に整備された。間もなく国際的な雑誌や学会に優れた業績が続々と発表されはじめ,国内外の諸大学や研究施設からも次々と優れた人材が集まり,医化学教室の黄金時代の幕開けとなった。
 それ以後の20数年に及ぶ医化学教室の輝かしい発展と数々の逸話にまつわる想い出を語るには到底紙面が足りない。その間,キラキラと輝く真剣な眼差しで私の講義に聞き入り,熱心にノートをとっていた学生諸君の中から次々と医化学の道を志して大学院に入学して来た若者たちと互いに切磋琢磨しながら,彼らが優秀な,国際的な研究者に育って行く姿を眺める事ができたのは私にとって至上の喜びであり,無上の幸せであった。そして私自身も又,毎日わくわくした気持ちで実験,研究を楽しんでいる中に四半世紀の時間は夢の如くに過ぎ去った。その間,恩師,先輩,同僚と数多くの共同研究者や学生諸君,そして内外の知友から賜った物心両面にわたる暖かい御厚情と御支援に重ねて心からの謝意を表したいと思う。
 1983年3月,定年を迎えて,私は25年間学生諸君に講義をしてきたなつかしい医化学講堂で「失敗は成功のもと」と題して最終講義を行なった(図4)。前列左から,着任当時の医学部長で慈父の如く御世話になった山本俊平先生,私の京大教授任命という当時としては画期的な人事を断行された平沢 興先生,私の後任医学部長で当日の司会をされた伊藤洋平教授,医化学第二講座の初代教授として,教室の発展と国際化に協力してくれた尊敬する同僚,沼 正作教授など,永年に亘って私を励まし支えて頂いた恩人とも申すべき方々であったが,何れも今は故人となられた。
 現在,想い出深い医化学教室の建物は取り壊され,跡形もない。まさに,武者(つわもの)どもの夢の跡である。中国の古詩に「古人復(マタ)洛城の東になく,今人還(マタ)落花の風に対す。年々歳々花相似たり,歳々年々人同じからず」という。医化学教室の名も,また建物と共に消え去り,嘗ての栄光を語り継ぐ人もそのうちに消えてなくなるであろう。しかし,その優れた伝統は後人に継承され,21世紀に向かって更なる発展につながることを心から祈る次第である。(1958.3〜1983.3 大阪バイオサイエンス研究所 名誉所長) 



百 代 の 過 客

竹 下 正 純   
 私が初めて医化学教室にお邪魔したのは1958年の春でした。早石先生は NIH から京大へ着任されたばかりで,実験室では久野 滋先生が大きな前掛けを付けて,実験台の分厚い表を削ってアニリンブラックを塗っておられたのを覚えています。
 当時は先ずアミノ酸等の代謝をバクテリアで見,セルフリー状態,さらに酵素精製と進むのが1つの方法でした。実験室には大きなワールブルグ・マノメーターがあり,これで細胞の呼吸を測るのです。毎日ゴットン,ゴットンと動かして,目盛りの動きに一喜一憂したものです。間もなくベックマンの分光光度計が入りましたが,始めはなかなか使わせて貰えず,石英のキュベットは高価なので割ったりしたら大変と,おそるおそる使っていました。そんな西も東も分からぬ私で,初めのうちは実験の結果が出ても果たしてこれでよいのかと自信が持てない状態でしたが,早石先生は実験結果を最も尊重され,どの様な結果を持って行っても,決してそんなはずはないと言うようなことはなくそのまま認められるので,1つ1つの実験が本当に真剣勝負でした。このことはその後,私の研究に対する姿勢の中心になりました。
 日曜日に実験室へ行くと必ず西塚先生がいて,ペーパークロマトを見せ「これスポットに見えるだろう? 発色法がないんであぶりだしてみたんだ,蛸焼き法だよ」,先生は「日曜は静かで落ちついて実験が出来る。新発見は大抵日曜日だよ」とよく言っていました。私の方はなかなか思うような結果が出ず,実験が夜遅くまでかかったのは,今思うと不勉強と要領の悪さによっていたようです。ある夜半,古自転車の荷台に数冊のジャーナルを積んで下宿へ帰る途中突然ライトを向けられ,「何処へ行くのか?」「下宿へ帰るところです」「その後ろに積んでいるのは何か?」「論文の雑誌です」横文字の詰まったジャーナルを見て納得したらしくようやく離されました。不審尋問に引っかかったのです。私の下宿は百万遍から西へ入った酒屋さんの離れでした。井唯先生が来ておられるというので,行ってみると早速若い人たちと店頭で一杯やっているのでした。
 酸素吸収の測定は,あとになって酸素電極で測る方法が出てきて非常に効率が良くなりました。当時ヘムの分解を研究していた中島 煕先生はその方法を論文で見て,電極のバイブレータにするためのスピーカーを買おうと夕方私を誘って町へ出ました。古道具屋を回って使い古しのマグネチック スピーカーを見つけると「これでよし」と。次に行くのは飲屋街です。さんざん梯子をして二人共有り金を使い果たし,次の店では何とかごまかして付けにしてまで飲んでいました。
 何時の頃からか,当番を決めて夕食を作ろうということになりました。お金を出し合ってプールしておきそれで材料を買ってきて作るわけです。私は外食で,いつもろくなものを食べていないので喜んで参加しました。橘先生は料理が得意で毎回変わったものを作っていました。西塚先生は後には自宅から通っていたので必要は無かったのかも知れませんが,それでも結構美味しいものを作っていました。金綱先生はあまり料理が得意そうでなく,奥様(候補?)から聴いてきたと言ってカレーライスなどを作っていました。
 今思うと当時のことが走馬燈のように思い起こされます。恩師早石先生には何から何まで本当にお世話になりました。個性あふれる多くの先生方が次々と現れ,共にディスカスし,そして去っていきました。大学院大学になり講座名は変わっても,100年にわたる医化学教室の輝かしい歴史が,さらに発展していくことを切に祈る次第です。
(1958.4〜1961.5 大分医科大学 名誉教授) 



50 年 の 感 慨

西 塚 泰 美   
 医化学教室に学んだ者の一人として,同教室の創設100周年,衷心よりお慶び申し上げます。
 私が医化学教室を訪れたのは医学部専門課程に進学した1953年4月のことになります。これは私の生涯の研究と関係が深い PI 代謝回転を Hokin 夫妻が記載した時であり,また,Watson と Crick が DNA の二重螺旋構造を提示した時で,50年の昔となります。その当時,医化学教室では内野仙治先生は学部長でしたので,講義は主として米谷先生が担当され,出版されて間もない Baldwin 著「動的生化学」に詳しい解糖現象の話でした。教養課程の2年目を工学部工業化学教室に席をおいて化学に興味をもっていた私は,その絶妙な生命の仕組みに驚嘆したものでした。その後の学生時代は病理学教室に出入りし,森 茂樹先生や沢山の先輩達から内分泌現象について話を聞く機会が多くありました。今から思うと,単一の化学物質が細胞に働くと,どのようにして色々の現象を引き起こすかに興味を抱いたことが,今日迄の研究に影響しているように思います。
 1958年,インターンを修了し,大学院へ進学し,生化学を志した私は,丁度その時,米国 NIH から帰国された早石 修先生に師事することが出来ました。そして酵素化学を中心に,実験科学とはどのようなものであるかの手ほどきを受ける幸運に恵まれました。その頃,米国の生化学は物質代謝の研究が活発で,核酸やタンパク質の合成の研究はやっと始まりかけていた頃だったと思います。1964年,ロックフェラー大学への留学の機会が与えられ,Lipmann 先生に師事してタンパク質合成の研究の手伝いをさせて頂きました。その頃のロックフェラー大学は全盛期とも言える時代で,若かった当時の私にとっては正しく科学の殿堂を見た思いでした。Nirenbergがトリプレットコドンを見出した直後であり,Ochoa,Holley,Monod などもしばしば研究室へ来られていましたし,Rous,Shope,Palade,Stein,Craig,Moore,Tatum,Koshland,Dubos,Woolley などがおられ,Merrifield,Baltimore,Edelman などは助手か大学院学生でした。そんな中で,今世紀始めの同大学創設以来,伝統の課題であるタンパク質リン酸化反応に興味を持つ研究者達,例えば Lipmann 先生の他に,Mirsky,Allfrey,Langan 各教授などに日夜接し,そこに神秘を感じたことも忘れ得ぬことです。
 帰国後,大学紛争が次第にエスカレートする中,1969年1月に神戸大学へ奉職しましたが,早いものでそれから今年で31年目を迎えます。その間,国の内外を通して数え切れない程,沢山の方々に出合うことが出来ました。そしてこの広い世の中には綺羅星のように素晴らしい科学者がいることを見て来ました。時にはほんのすれ違いの方も少なくありませんが,こんな人がいるのかと思う感動が今も私を支えています。定年を1年残した1995年の1月,思いがけない震災で研究室も自宅も失い,途方にくれました。そんな時,国の中は勿論,世界中からの支援や激励に逢い,Scientific community とはどのようなものかを知ることが出来ました。その直後に神戸大学の行政職に就き,それから4年余りが経って気がついて見ると,当初の同僚も友人達もいつしか定年を迎えていて,感慨深く思う昨今です。
 日本の大学は今,抜本的な発想の転換を求められている状況ですが,このような激動の時代は,中世以来800年余の歴史をもつ欧州の大学では,恐らく幾度か経験してきたことと思います。医化学教室も名称が変更されましたが,次の100年,未来へ伝承される学術研究のさらなるストーリーが花開くことを願って止みません。1999年4月1日 
(1958.4〜1968.12 神戸大学 学長) 



Dr. Irving P. Crawford と早石研

畑 中 正 一   
 早石先生が NIH から医化学教室に着任されて最初に外国から客員教授として来られたのが Dr. Irving Crawford である。彼はスタンフォード大学の Charles Yanofsky 教授のポストドックを経てオハイオ州のクリーブランド市にある Western Reserve Medical School の微生物学教室の助教授になり,1960年から1年間家族と一緒に京都に移り住むことになった。東山七条近くにある一軒家に Irv (Irving) と奥さんの Edna,息子の Bill (William),と James (Jim) が日本生活を始めることになる。実はエドナは牧師の娘で京都の大学を出ていたから里帰りのようなものである。アーブはフレンチ・ホルンを吹いていたが,日本では尺八を習いたいと言う。そこで通訳を兼ねて京大病院の近くの橋本暁山先生のところに一緒に稽古に赴いた。稽古の前は深夜の実験の合間に教室でよく合奏したもので,おかげで酵素が失活したと周囲から苦情の出ることもあった。
 当時の早石研は細菌のトリプトファン分解経路が中心で,久野グループ(内野先生以来の米谷,田代,谷内を含む)が黄色物質,井唯グループが O18 を使って中間代謝系の酵素と中間物質の同定に取り組んでいた。一方,アーブと私は大腸菌のトリプトファン合成系の仕事に携わった。私たちの実験は今で言う分子遺伝の技法を駆使して種々の変異株を得ることであった。大腸菌に UV 照射をして点突然変異でできた変異株を拾うのであるが,蛋白質はできるが酵素活性のないものを抗体で拾い集めて CRM (cross reacting material) と呼んでいた。ところが点突然変異でありながら,CRM さえもできない菌が現れはじめた。これには驚きで当時は何の説明もできなかったが,1965年以降トリプトファン・オペロンとコドンが解明されるに及んで,はじめてその理由が明らかになった。アーブはトリプトファン合成酵素の研究を彼の師のチャーリー (Yanofsky) と一緒に最後まで続けていたが10年程前にスタンフォード病院で肉腫のために死去した。最近チャーリーが京都を訪れたとき,隣の席にいたエドナに久しぶりに会ったが2人は再婚していた。ビルは医者に,ジムはパイロットになってそれぞれ活躍しているとのことである。
(1959.4〜1963.3 塩野義製薬株式会社 医科学研究所 所長 代表取締役副社長 医薬研究開発本部長)

 


外 科 学 と 生 化 学 の 狭 間

小 澤 和 恵   
 私が医化学教室にお世話になったのは1959年で,早石先生が京大教授として着任された翌年で,臨床の者で,早石研に入った最初であったと思います。第一外科学教室(荒木千里教授)の大学院に入り,2年間の臨床修練を終え,研究生活に入り,この間,延べ4年間,お世話になりました。
 当時の第一外科では9割以上が脳神経外科患者で,頭部外傷,脳腫瘍などの症例で,その研究も脳に関するものですが,研究室といっても机が与えられ,ダニが住み着き,DDT を散布しながら,組織染色を行っている状態で,今から思いますと,非常に劣悪な環境でありました。それに反して医化学教室は素晴らしい環境で,目を見張るような種々の機器が次々と設置され,教室員も30名以上となり,全員が夜を徹して研究に没頭され,その雰囲気に常に圧倒されておりました。また,連日の厳しいランチセミナーの内容を理解できるように努力しましたが,私自身にとって研究するという素養も才能もないことを自覚しておりましたので,体力で勝負するしかないと,正月の3日間くらいは休みましたが,連日,私なりに精一杯研究をしたものです。
 当時の第一外科では,組織学的な研究が主流で,かつ万能であり,生化学的な手法を用いる研究は皆無で,たとえ得られた生化学的なデーターはなかなか容認されず非常に苦労したものです。また,細胞分画,例えばミトコンドリアを分離調製して研究したといっても組織をつぶして何が研究かと言われる有様でした。
 臨床からきた事もあって,研究のテーマ等についても,多少自由にさせていただきました。私の最初の仕事は,髄液に関するものでありました。当時,急性頭部外傷患者の随液中には 265 mu にピークを持つ紫外吸収スペクトルを示す物質が存在し,病状の軽快とともに次第に減少するということで,一つのトピックスとなっていました。外傷による脳組織の損傷によって核酸が随液中に流入すると考えられていたのです。
 私は採取した随液をたまたま室温に放置したところ,265 mu の最大吸収が消失したことに驚き,その吸収を示す物質が核酸であるということに疑問をもち,最終的には久野滋先生の下でアスコルビン酸酸化酵素をカボチャより精製し,添加すると,その吸収は急速に低下したので,結局この吸収物質は核酸でなく,アスコルビン酸であることを同定確認しました。この研究成果を荒木教授にご報告申し上げたのですが,すでに先生は二三の研究生に核酸として学位を与えていたこともあり,教授室で私の方が正しいのだと,厳しく叱られました。その上,どちらが正しいか,もう一度再検せよと言われましたが,お断りしたことを思い出します。
 一方,医化学教室の研究は主に代謝,特に酵素学の隆盛時代であり,それらを外科の領域に応用しようなんて望むべくもなく,又,医化学の先生からも,外科と生化学は距離がありすぎるから,無駄なことだといわれたこともありました。随分,外科と生化学との狭間で悩んだものです。振り返ってみますと,早石研時代の前半は主に脳外科領域に主体をおいたテーマでの研究であったわけですが,この期間は医化学教室の先生の下で,厳しく,より基本的な指導を受けるべきであったと,晩年には後悔したものです。
 私自身が医化学教室を去って数年後に脳外科から肝臓外科に転向しましたが,この頃から外科学においても生化学的研究が主流になってきました。特に,最近の生命科学の発展に伴い,分子生化学,ゲノム科学が急速に進歩し,外科学といえども,これらの基礎研究を土台に,遺伝子治療,臓器移植など著しく発展してきているのをみますと,40年前と比較して隔世の感を抱く昨今です。(1959.6〜1963.9 滋賀医科大学 学長) 



約40年前の医化学教室での私

市 山   新   
 私は昭和35年に学部を卒業し,折角医学部を卒業したのだから少しは医者の生活も経験してみたいということで大阪の病院でインターンという当時の医師研修を受けました。そして,どっぷり臨床の真似事に浸かった1年を過ごした後,大学院生として医化学教室に入りました。医学進学コース以来の同級生の石村 巽,小林修平両君と大阪大学出身の山本尚三君が同期です。彼等が一緒だったことで随分勇気付けられましたが,しかし今から思うと懐かしいけれども苦しくて冷や汗ものの最初の数年間でした。私は学生時代には全学のサッカー部の選手で,しかも医学部サッカー部とテニス部にも入っていたので,グランドやテニスコートでは元気一杯でしたが,その分勉強がおろそかになっていました。大学院入試の面接の時,早石先生に「私は体力だけにしか自信がないのですが」と申し上げたところ,「君,生化学では体力が一番大切ですよ」とおだてていただいてとても嬉しかったことを覚えています。これからは心を改めてしっかり勉強しようという気概を持って入った医化学教室はしかし,聞きにしまさる勉学と研究の道場でした。直接の指導者として大変お世話になり大きな影響を受けた西塚泰美先生は学年で3年しか上でないのに,知識の豊富さ,実験と研究センスの見事さ等どれを取っても神様のように見えるし,毎日昼の時間に行われるランチセミナーはまるでお経でも聞いているように何も分からないという有様で何回も心の中で悲鳴を上げました。しかし,ランチセミナーなんて毎日聞けば1年もしない内に分かるようになると先輩の方々が励まして下さいましたし,優れた頭脳の持ち主でありながら毎日夜遅くまで実験なさる西塚先生というお手本があったので,私はもっと働かねばといつも思っていました。長女が生まれた日にも試験管を振っていたことが家内には余程こたえたらしく,今でも何かの拍子にこの話が出てちくりとやられます。
 このような研究中心の医化学教室での生活で,心のオアシスというか一番の安らぎはほんの時々ですが大川監督の下で楽しんだ野球でした。まるで遠足の日を待ちわびる幼稚園児のようにその日を楽しみにしました。そして,日頃は生化学道を修めようとする行者のように実験に没頭している多くの先輩や同輩が,遊ぶとなると一斉にグランドに出て,嬉々として野球を楽しまれる様子を見て,これが本当に優秀な人達の姿と妙な感心の仕方をしたものです。
 私はその後,昭和39年に助手に採用していただき,昭和43年からの米国ウイスコンシン大学の Lardy 研での2年間,東京大学栄養学教室で早石先生の下で過ごしたそれに引き続く約3年半を経て,昭和49年から浜松医大の生化学に勤務しています。早石先生に「生化学では体力が大切」と言っていただいて生化学を志した日から数えてはや40年,生化学一本でやって来れたのは,最初の最も大切な時期に早石,西塚両先生という偉大な師に恵まれ,実験科学とは何かを徹底的にしこんでいただいたお陰と大変感謝しています。
(1961.4〜1970.11 浜松医科大学 医学科第一生化学 教授) 


茫々四十年:ナフタリンを食べる

落 合 英 夫   
 昭和35年春,早石研究室の門を叩いた。農学部の生物化学で(新制の)ドクターはとってはいたが,実際には「いきもの」の取扱いを全く知らないドクターであった。自分ながら,恥ずかしいと思った。
 早石研では第5研の谷内 敞先生グループに所属することになった。「微生物によるナフタリン環の開裂反応機構」が私のテーマであった。「Enrichmentculture」の1の1から,谷内先生に教えていただいた。谷内先生の指導は,厳しかった。あれが本当の教育,指導というものだ。小島 豊先生,金綱史至先生にも,助けていただきながら,文字通り,夜を日に嗣いでの実験生活だった。その時は,必死だったが,今思えば,何と懐かしいことか。谷内先生の御指導のお蔭で,開裂菌が単離出来た。ナフタリンを炭素源とした,大容量の培地を,何十本とオートクレーブで滅菌すると,滅菌室のみならず,研究室全体にナフタリンの,「香ばしい」香りが立ちこめたものだった。この菌は,ナフタリンをいとも簡単に,サリチル酸へと分解した。ただ,目的とした中間産物,ナフタリンのエポオキサイド化合物の直接単離には至らなかった。が,その経路の推定は出来た。第5研での研究生生活は,1年足らずの期間であったが,内容的には,私にとって,3年分ぐらいの,貴重な研究体験と,学究成果を得ることが出来たのだった。
 その後,岡山大学,そして,島根大学と,生物化学研究室の教官として,教育と研究に,携わることになった。が,あの早石研での研究生生活,第5研での谷内先生による御指導を体験してなかったならば,私の,その後の教員生活は,軽薄なものになっていたことと思われる。あの体験があったればこそ,私は,浅学非才でありながら,或る意味で,自信を持って,大学での勤務をすることが出来た。
 今は, 定年退官して, 「日々是好日」 の余生をおくる身とはなっているが, こんな嬉しい思い 出はない。医化学教室の益々の御発展を祈っております。(1961.4〜1962.3 島根大学 名誉教授) 


インプリントされた医化学教室

中 澤   淳   
 昭和37年の4月に,私は中村博行,中澤晶子と共に大学院生として医化学教室へ入った。その頃,早石 修教授は米国へご出張中で,久野 滋,杉野幸夫,沼 正作の3助教授が入学試験をして下さった。大学院4年に小島 豊,塚田欣司,畑中正一の各氏,3年には精神科からの川合 仁氏,2年には石村 巽,市山 新,小林修平の各氏がいて,大学院生は13名になった。助手には,谷内 敞,西塚泰美両先生,化研の籍に鈴江緑衣郎先生がおられた。
 私は,谷内先生の酸素添加酵素グループに入り,5研でピロカテカーゼの結晶化の仕事をすることになった。はじめは,小島さんに,ピペットの使い方からベックマン分光光度計による酵素活性測定に至るまで,手を取るようにして教育していただいた。武田薬工でシュードモナス菌の大量培養をしてもらったが,粗抽出液の比活性が低く,酵素を多量に作る野外菌株を enrichment culture 法で分離し,大量精製をやり直した。結局,きれいな結晶は作れなかったのだが,当時としては大量の純粋酵素がえられたので,蛋白質化学の研究をさせてもらった。この間繰り返し行った細菌の大量培養や調製用大型電気泳動などは,初心者にとり新鮮な感動を伴う体験であったが,研究には体力が必要であることもわかった。セミナー室に,古武弥四郎先生の「凡人は働かねばならぬ……」の書が掛けてあったが,それをまずはじめに実感したわけである。
 3階セミナー室で毎日行われるランチセミナーは,若い大学院にとり緊張を要する生化学の道場であった。初舞台では,谷内先生が選んで下さった Ochoa グループの遺伝暗号に関する ProNAS の5編の論文を紹介した。後になって degeneracy と degeneration を混同していたことに気づき,恥ずかしかった。当時セミナーは,理学部の香月祐彦先生のグループ,薬学部の鈴木友二先生,ウイルス研の渡辺 格先生のグループの人たちも一緒で,40人ほどもいたであろうか。そこで飛び交う化学や遺伝学の言葉が理解できず,Moore の物理化学の教科書や Jacob-Monod の operon 説についての J. Mol. Biol. の総説を大学院生で輪読会をして勉強し,追いつこうとした。この年のセミナーでの話題のいくつかは,演者とともに,今でもかなり鮮明に思い起こすことができる。
 私はその後,昭和41年に助手になり,昭和44年4月大学紛争が激化する前に,早石先生のご推薦で米国 Johns Hopkins 大学の Saul Roseman 研究室へ留学した。昭和46年1月に帰国し,千葉大学へ転出するまで, 形の上では9年 (実質7年) 間, 教室にお世話になったことになる。 しかし,最も印象深いのはやはり最初の1年のことである。
 当時の医化学には,出身の大学や学部に関わりなく,ひたすら学問を追求するという雰囲気が漲っていた。これこそが,早石先生のお作りになった教室の最もすばらしい特色の1つであったと言える。そのような場で仕事ができたことに感謝し,それを誇りに思っている。
(1962.4〜1971.1 山口大学医学部 生化学第二 教授) 


医化学教室にて−1960年代

中 澤 晶 子   
 私は医学部を1961年に卒業してインターンの後,1962年に医化学教室の大学院生となった。1年次は沼 正作先生の指導を受け,シュードモナスのグルタル酸代謝を学んだ。まもなく沼先生がドイツの Lynen 研究室に移られ,早石 修教授から,将来のことも考えて栄養学の道も勧められたが,酸素添加酵素の研究をさせていただくことをお願いし,丁度その時着任された野崎光洋先生のグループに入れていただいた。まもなく,電子スピン共鳴装置でメタピロカテカーゼの鉄の荷電変化を証明できないかと云うことで,阪大医学部生化学の山野俊雄教授のご指導を受けることになった。最初はメタピロカテカーゼの,次いでピロカテカーゼの精製標品をアイスバケットに入れて,京阪三条から淀屋橋まで通う日が続いた。山野教授のご迷惑も考えず終電車まで粘ったこともしばしばあった。ピロカテカーゼの鉄の電子状態がカテコールを加えると大きく変化することを発見し,夜中に早石先生のご自宅まで電話をした記憶がある。また,非ヘム鉄を酵素から除去して失活させ,再添加して活性化出来ることを証明し,再活性化の機構を明らかにした。これらの研究を通じて,実証科学の手ほどきを受けたことは,後の研究に大いに役立った。
 大学院修了後,日本学術振興会の奨励研究生として採用され,研究が続けられることになった。研究テーマはリジン酸素添加酵素の反応機構である。基質特異性を調べているとき,オルニチンを加えると,オキシメーターで酸素濃度がゼロにならないで反応が止まってしまうことを見つけた。野崎先生の指示でそこにカタラーゼを加えると酸素が発生することから,反応生成物として水でなく過酸化水素が生じていたことが判った。これがリジン酸素添加酵素は基質を変えると酸化酵素に変換することを発見したきっかけである。なお,当時私が扱った酸素添加酵素は,シュードモナス属細菌を酵素源とするものであったが,研究対象は精製酵素であり,鉄原子であり,酵素分子であった。日常的に微生物を培養しながら,微生物についてほとんど知らなかった。
 ジョンスホプキンス大学の Saul Roseman の研究室で約2年間ブドウ球菌の糖輸送系を研究したのち,得られた職場が順天堂大学医学部細菌学教室であった。1970年当時の細菌学は,古典的細菌学から分子遺伝学を導入した新しい細菌学への転換期であり,すべてが新鮮で興味があった。生物としての細菌と対話し,細菌を通して世界を,宇宙を学ぶことを知った。現在では細菌との対話法も進歩した。細菌の全ゲノム情報をもとに仮想生物を構築しそれを現実の細菌に質問するというやり方である。私は現在,ヘリコバクター・ピロリやクラミジア・ニューモニエなど細菌のニューフェイスを相手にこのような対話をしている。
 医化学教室の歴史をふりかえる人に,1960年代は特別の時代であったことを伝えたい。比類ない活気と若さ(時には青臭さ)に満ちあふれた,飛翔を前にした若者たちの巣であった。一大学院生の手記が,そのような雰囲気を伝える一助になれば幸いである。
(1962.4〜1971.3 山口大学医学部 微生物学 教授) 


キ ミ ホ ン ト ウ カ イ

平 田 雅 春   
 京大医化学教室で研究に勤しんだ2年間は生涯で最も楽しく,最も充実した日々であった。丁度,早石先生が帰国され京大教授として医化学教室を主宰される様になって5年目の年でもあり教室は若さと活気に溢れていた。先生は忙しい時間を割いて実験室を覗かれ声を掛けて行かれたが,大抵は“アッソー”か“キミホントウカイ”のどちらかで,“アッソー”はまあまあやってる様だなあと言う程度の意味で一応巡視はパス,“キミホントウカイ”と言われたら大変な光栄で心を踊らせたものである。私が“キミホントウカイ”と言われたのは2回あり,1回目は大腸菌のスレオニンデアミネースが AMP の存在下にコンフォーメーションチェンジする事を発見した時,2回目はバクテリアの酵素がビルビン酸の存在下に ATP から cyclic AMP を生合成する事を明らかにした時である。先生は研究したいと言う意欲に対してはサポ-トを惜しまれず,タイミングよく当時高価だった C14ムATP を購入して頂いたので実験は急速に捗り立派な成果を収める事が出来た。又,先生には教授室で何度も論文作成の指導をして頂いた。生化学の知識は主にランチセミナーで仕入れた。セミナーのレベルは高く,内容も魅力的でその時間を心待ちにしたものである。先生は時々セミナーの時間を利用して講演の練習をされたが,私のような駆け出しの意見にも耳を傾けて内容を推敲され,化学者としての姿勢を示されたのが強く印象に残っている。当時学会で評判の高かった早石先生のスライドの多くは西塚さん(現神戸大学長)の労作だったと記憶している。私にも何度か文献紹介の機会が回ってきたが,院生だった本庶さん(現京大医学部長)に鋭い質問を浴びせられビーコンを頂戴した懐かしい思い出がある。徹夜で実験したり,低温室に閉じ込められたり,ヤジロベーのフラクションコレクターが故障して大事な試料を床に流してしまったり実験にまつわる思い出は尽きないが,勉強ばかりしていたわけでなく,阪大の生化学教室との交歓野球にも参加した。又,数人で医化学小唄を作って忘年会で合唱する等おおいに羽をのばした。共に実験しディスカッションした当時の院生,助手,助教授が各地の大学を代表する教育者となって今も活躍しておられる事は本当に喜ばしい事で,今日までの変わらぬ御高誼に心から感謝すると共に,このような素晴らしい機会を与え御指導くださった早石先生に厚く御礼申し上げたいと思います。又,実験の度にお世話になった大川さん,論文の作成にお力添え頂いた平野さんに改めてお礼を申します。どうぞ早石先生そして諸先生方お元気で御活躍ください。医化学教室の一層の御発展を心から御祈りしています。
(1963.3〜1966.12 塩野義製薬(株)新薬研究所 安全性研究部門 次長 主席研究員) 


学  園  紛  争

野 崎 光 洋   
 医化学教室開設100周年おめでとうございます。この伝統ある教室に一時期在籍したことは今も私の誇りです。私が着任したのは1963年,4代目早石教授の時代で,今から36年も前のことです。以来,12年間助教授として教室の母親役を努めました。当時,それぞれに個性の強い息子や娘を60人ほど抱える大家族でした。父親は主に外で働き,子供達はそれぞれ自分の道を歩み,母親は家に居て家庭を守るというのが,早石教授の教室運営方針でした。早石教授がアメリカから帰国され,新しい研究室を開設されてから数年後のことです。教室全体が活気に溢れており,学部・学閥の壁を越えて国内外から俊才が集まり研究にしのぎを削っていました。家庭的な中にも,それぞれの研究グループ間やグループ内での競争意識も強く,お互いに切磋琢磨し,それが,研究発展の大きなネルギーになっていました。研究費にも恵まれ,豊富な実験器具や試薬類にも支えられ,当時としては国内で最も恵まれた研究環境の一つではなかったでしょうか。このような大所帯ともなれば不満のないはずもないのですが,全体としては研究成果も上がり,教室も順調に発展していました。
 その家族に突然危機が押し寄せたのは1968年の全国的に吹き荒れた学園紛争です。管理教育制度に不満を持つ学生は大学改革, 講座制解体, 学園民主化等をスローガンに授業をボイコット し,ストに突入しました。医学部キャンパスはバリケードで封鎖され,教授はキャンパスから完全にロックアウトされました。助教授以下は入構はできましたが,研究の出来るような状況ではなく,助講会,助手会に分かれ毎日学生相手に実りのない会議が繰り返されました。大学改革の必要性は誰しも感じていたところであり,学生の行動はかなり過激ではあったが,彼らの主張は理解できなくもなく, 教授会と学生との板挟みになり本音の部分を抑えながら, キャン パス内では学生寄りの意見も言わざるを得ませんでした。教室員は研究の出来ないことに苛立ちを感じ,教室の中でもおたがい疑心暗鬼になり本音の部分で話のしにくい状態でした。しかし, 何としても出来るだけ早く研究を再開したいという研究中毒者の多かったのが救いでした。
 このような状況の下で,教室の母親役として教室員の本音の部分を推察し,ばらばらになりがちな気持ちを何とか繋ぎ止め,教室の崩壊を防ぐために何をするべきかスタッフ同士で何度も話し合いもしました。一足先に紛争の起こった東大では実験器具は破壊され,実験動物は共食いをして死んだとの状況を聞きました。当時の早石研の研究を支えていたのは人材はもとより,高価な実験機器と豊富な試薬類でした。そこで,高価な実験器具は医化学の裏にあった総長官舎にお願いして裏口から安全な場所に搬出するとともに,冷蔵庫と冷凍庫を購入し,キャンパス外のさる場所に設置し貴重な試薬類はそこに収納しました。また,動物は封鎖されていなかった薬学部の実験に供しました。当時このような措置をしたことは教室員全員に知らせられるような状況ではなく,ごく一部の人の間で秘密裏に行いました。封鎖されていた間,早石教授は緑内障で京大病院に入院しておられましたが,教室の事務はキャンパス外に借りた一室を仮事務所として,そこで秘書達が貯まっていた論文の整理などの仕事を続けました。私はその間,一抹の後ろめたさを感じながら,病院,仮事務室,教室を行き来する三重生活を送っていました。
 封鎖の間にとった措置の善し悪しはともかく,9ケ月間の封鎖の後,教育・研究が再開されました。この学園紛争の結果,教室員相互の不信感が残り,ばらばらになった教室もあったと聞きましたが,医化学に関しては,この秘密裏に行った措置を咎める者もなく,心配した凝りも残らず,何事もなかったかのように,速やかにもとの研究体制に戻り,従来の活気を取り戻しました。大家族ではありましたが,構成員全員の研究の場を守りたいという共通の目標と研究に対する真摯な情熱があったからこそ,何事も医化学の牙城を揺るがすことは出来なかったのではないでしょうか。今となっては何もかも懐かしい想い出です。
(1963.4〜1976.3 滋賀医科大学 名誉教授) 


医 化 学 教 室 の 想 い 出

山 本 尚 三   
 私が京都大学医学部医化学教室に入れていただいたのは,昭和38年4月であった。大阪大学大学院医学研究科に入学して生化学教室にお世話になることを決心した昭和36年1月に,早石先生の阪大併任が決まり,2年後に早石先生が京大へ引き上げられた時に,大学院の転入学という当時としては珍しい処置で京大へ転学した。多士済済の俊英の居られる大教室であるという認識と覚悟はもっていたが,最初にびっくりしたのが例のランチセミナーである。今でもはっきり覚えているが,その日の当番は中沢淳君で,私の次の学年の大学院生であったが,テーマは記憶にないが私には全く理解できない話を立て板に水(彼は今でもそうであるが)で話すのを聞いて,これはえらいところへ来た,2年間辛抱して大学院が終わったらアメリカへ放り出して貰おうと,落ちこんでいた。しかし,人の運命はわからないもので,翌年春に大学院中途退学で助手に採用していただき,その後昭和53年12月まで医化学教室に置いていただき,おそらく上田国寛君か私が最長在籍者であろうかと思う。
 私の在籍中の初めは早石先生が第二講座を併任された三助教授時代で,最初は久野・杉野・沼,次は野崎・西塚・橘の先生方が,三本の柱として教室を支えられていたが,何でも引き受けさせられる人,うまく躱す人,何でも拒否する人の3つのタイプの絶妙の組み合わせであった。沼先生の第二講座教授就任後は野崎助教授が,某先輩の言では早石先生の助教授は3年しか持たないとのことであるが,結局11年余り番頭役を勤められた。その後は私がギリギリの3年8個月お勤めし,ポツダム助教授は高井克治君であった。
 16年近く医化学教室に在籍し,久野・井唯両先生の世代から,野崎・西塚・橘・徳重先生方の頃をへて,私自身の前後の人達,そして最後は早石先生に随行して OBI へ移られた世代の人々に至るまで,また,沼門下の方々など,多くの秀才と逸材と日常を共にして多彩な経験をさせていただき,その人脈は私の大きな財産である。いろいろなことはあったが,概して一門の皆さんは仲良くやっており,お互いに引っ張り上げたり支えあったり,この集団で人生のある時期を過ごしたことを,誇りとし恩恵を享受していると考えるのは,私だけではないと思われる。(1963.4〜1979.12 徳島大学 名誉教授) 


学 問 こ と は じ め

橘   正 道   
 思い起こして気がつきましたが,私は医化学60周年の行事に参加していたのです。ちょうど40年の昔に戻ります。昭和34年(1959),早石先生がアメリカから戻られ,医化学教授に就任されて2年目の4月です。手元にある一葉の写真を見ていると,多くのことがゆっくり頭から出て参ります。記念講演会の後,今は姿を消した医化学大講堂の玄関前で撮られたもので,約70名程の人数,最前列にはきわ立ってお若い早石教授のほかは,杖も持たれた長老が10名程並び,その中に古武弥四郎先生がおいでです。後列には,鈴木友二教授(薬学部,後に阪大蛋白研所長),昨年亡くなられた異才,須田正巳先生のお顔があります。若々しい新人の大学院生の方ですら,大部分が今はすでに研究職を離れておられます。
 講演会で,古武弥四郎先生のお話しを聴けたのは幸せでした。先生は戦後日本の医科生化学復興に活躍した阪大学派の育ての親で,早石先生もその流れの中におられました。犬に大量のアミノ酸を食べさせ,尿に溢れでた中間体を同定して代謝経路を決めてゆくという手法で,トリプトファンの産物をキヌレン酸(犬尿酸)と名ずけ,ヒスチジンの産物をウロカニン酸(尿犬酸)と名ずけたなど,洒脱で痛快なお話しでした。犬尿酸と黒板に書かれた文字と,先生のお姿が目に浮かびます。
 「本を読み,考えることも必要だが,凡人は働かねばならない。働くことで自然が目に見えるようになる」という趣旨の,医化学セミナー室に掲げられていた古武先生の色紙と,上の記憶が重なり合って,感慨深いものがあります。
 私は,東大で医学部,ついで大学院の教育を受けましたが,当初より半分は内科医になることを考えていました。そのとき,早石先生が人事交流の一環として1年の期限付きで助手を公募されていて,そこに採用していただいたのです。留学された鈴江緑衣郎さんの助手休職の席を利用しての人事です(早石先生が併任教授であった化学研究所助手)。恥ずかしながら,私は大きな決意で京都に赴いたわけでなく,有名な先生が来られたのだからという漠然とした心からでした。しかし,その1年間で生化学をそのまま続けることを決意したのであり,振り返ってみれば,これが一生での最大の転回となりました。総括的な言い方になりますが,一つの魂が人生の内と外を訪れ,ものを見届ける旅をしていて,最も多くを見届けた時であったということです。
 新出発をしてようやく1年の教室でしたが,近代生化学の研究の場として,人,設備器械,薬品,情報のネットワークについて第一段階の整備を終え,第二段階に向かいつつありました。早石先生はさらに学生教育に多大な努力を注がれており,まさに三面六臂(さんめんろっぴ)のご活躍でした。ほんの一例ですが,当時は ATP とか CoA などの生化学試薬,あるいは放射性化合物はほとんどアメリカからの輸入に頼り,また研究費を考えると極めて高価でした。それも注文して入手に2か月以上もかかり,通関の手間も加わりました。さらに航空便となればますます経費がかかりました。普通の研究室ではその事だけでも,国際レベルの研究はしにくかったのです。早石先生はアメリカよりご自身で持ち帰られたり,他の便法で苦労して入手されたそれらの試薬をこれまたご自身で整備して,秘書室のデシケーターとアイスクリームストッカーに保管し,教室員の使用に供されました。
 有名なランチセミナーはすでに始まっていました。その頃から毎日です。鈴木友二先生(蛇毒酵素の解析が主テーマ)と岩永貞昭さんを始めとする先生の教室員,また遠くから理学部生物化学の香月裕彦先生(当時助教授,ケト酸代謝)と何人かの教室員が参加し,レベル高く,刺激的でした。とくにデータの意味と解釈,データと結論との間に一義的な関係があるかという論理が厳しく討論されたのです。論文をそのように読むことで,良い研究の論理と構築を学ぶことになりました。他人の研究の論理が理解できずして,自分の中に良い研究計画を作れるはずがありません。多くの研究室では今もおそらくそうであるように,著者の記述をかいつまんで無批判に翻訳するだけで終わっていたのです。私には驚天動地の事でした。
 複数の研究グループが参加することでトピックが多様となり,参加者の知識の幅が広がり,このセミナーは研究訓練と共に,情報収集の場ともなりました。論理とその実践の訓練は若いときになされるべきものです。初めよりこの訓練を受けた人がいかに幸せであったかは計り知れないものがありましょう。
 私のテーマは β-アラニンの代謝で,同室になった西塚泰美さん(当時,大学院2年生)がすでにこのアミノ酸がアミノ基転移反応を受け,マロン酸セミアルデヒドを生ずることを決定していました。このセミアルデヒドの行方が私の責任です。しばらくして酸化的脱炭酸を受けアセチル CoA が生ずることがわかり,一方で緑膿菌より酵素を部分精製いたしました。また,条件によりセミアルデヒドは,還元も受けて,ヒドロキシプロピオン酸になるらしいことも分かりました。この間,貴重な CoA を要領良く測りとる仕方,またカルシウムリン酸ゲルの使用法まで早石先生から廊下での立ち話などで教えていただきました。なにしろ,酵素精製は一々のステップでパイロット試験をしながら進めることも知らなかったのです。14CO2 をアルカリに吸収させたのち,弱エネルギーβ 線を測定する当時最新鋭のガスフローカウンターで放射線を測定する方法を西塚さんから教わりました。同室の竹下正純さんは β-アラニントランスアミナーゼの精製を担当し苦労していました。当時まだジチオトレイトールのような良い試薬がなく,また硫安は悪いなどで,酸化に弱い酵素の精製は一苦労でした。余談ですが,竹下さんには,音楽喫茶,映画観賞によくつき合っていただきました。
 皮膚科から来られた金綱史至さんは西瓜の種子から得たピラゾールアラニンの代謝を研究していました。彼に東寺の仏像や東福寺を案内していただいたのは懐かしい思い出です。
 とっておきの話をいたしましょう。マロン酸セミアルデヒドの仕事がかなり進んだところで,学内の化学研究所の研究会で発表することになりました。抄録を書くことになり,原稿を早石先生にお見せしたところ,少し見られて「ああ,そう」とちょっと笑われ,「明日まで預かっておく」ということになりました。その翌日です。なんと,先生から頂いたのは,すっかり書き直された先生御自筆の抄録でした。「ははあ」と恐れ入ったのですが,これは大変なことを意味しています。私の成果の発表への考え方が根本的におかしいことを見られた先生は,少しの修正ではすまないと,何も言われずに,初めから書き直されたのです。私の原稿は研究の時間経過を追うように書かれていました。先生は成果のポイントとそれを支える実験結果を分かりやすく他人に伝えるようにまとめておられました。後年になって,私が同僚に「論文というのは日記ではないよ」など言うとき,いつもこの事を思い出していました。客観的に重要な成果と解釈を整理して,論理を構築し,論文に書くのであって,必要性のない個人的なクロノロジーや言い訳をそこに入り込ませてはいけないよということでした。発見された事実はすでに個人を離れ,それを超えたものだよということでしょうか。
 東大で古典的技術の習得という面では良い教育を受けたと思います。しかし私自身の力量不足もあり,サイエンスとは何か,どのように研究を進めるべきかについて余りにも理解不足でした。学問には伝統が必要です。太平洋戦争による研究の空白は多くの研究室に不可抗力として大きな影響を及ぼしていました。単に,設備・薬品の入手困難のみでなく,近代研究についての根本的な常識が一般に欠けていたのです。研究の組み立てと進め方,研究者の育て方などについて,基準となる指導原理がなく,牽引力,求心力も不足し,総合がなされなかったのです。多くの人が,必死に道を模索してはいたのですが,届きませんでした。結果として,若い研究者がランダムに走ることになり,せっかくの才能が効率よくはたらきませんでした。幼児教育と同じく,夢を育てるゆとりを与えつつ,合理性ある厳しい躾が研究者の育成には必要のようです。
 以上のようなことで,医化学60周年頃のわずか1年間の在籍が私にとって最重要な転換期であったことをお伝えいたしました。私にとっては学問ことはじめとなったのです。
 その後,昭和39年〜43年(1964〜1968)という医化学教室の1つの爛熟期,大きな講座が正式に2つの講座に分かれる寸前に在籍しましたが,これまた刺激多く,実り多い期間でありました。この頃のことは,他の人が書かれると思い割愛いたします。伊藤和彦さんと一緒に大切な研究のきっかけを作りえました。静田 裕さん,寺田雅昭さん,最後には中西重忠さんがグループに入られそれぞれ貴重な成果をあげられました。愛知(旧姓)静枝さんには,きめ細かい仕事の手伝いをしていただき,心の中でいつも感謝しています。
 100周年を節目として, 医化学教室がすばらしい伝統を礎として, そこでますますよい研究者 が育ち,さらに大きく発展することを祈るしだいです。(1964.11〜1968.1 千葉大学 名誉教授) 

ランチ・セミナーの思い出

伊地知濱夫

「十年,一昔」と言われますが,早石 修先生の教室に1ケ年お世話になってから,早や30年余の月日が流れ去ったことになり,当時,ご一緒させて頂いた方々にも,既にご他界になった方もおられるなど,月日の流れの速さには愕然とした思いである。
 幸にも早石先生はご壮健であり,直接,ご懇篤なご指導を頂いた市山さんをはじめ,同時期に共に学ばせて頂いた多くの先生方は,各分野でご活躍になり大慶の至りである。
 昭和38年頃と記憶するが,京都市内のホテルで臨床医を対象として早石先生の「ヌクレオタイドの作用などについての解説」を主体としたご講演を拝聴し,終了後,個人的にお教え願ったが,お教え下さった内容は実に明快,かつ,「その点は未解明」などと鮮明であり,驚嘆すると同時にこのような教授に鍛えて頂きたいと念願し,約1年後にこの念願が実現した次第であった。
 内科の教室から国内留学の形で出向した最初の日,早石先生から黒板の前で私に与えられる課題の背景・目標などについて,教授御自らご説明いただいのには恐縮した次第。
 しかし,最初に文字通り「面喰らった」ことは,毎日行われるランチ・セミナーであった。内科教室での抄読会などと同じレベルとは全然考えてはいなかったものの,余りにも従来のものとは異質であり,理解できることは皆無という惨澹たる状況。タイトルすら「何の事?」というレベルで,我慢できず時には隣席の方に小声で教えて頂くこともあった。10日程も経った頃,「この様な状況が続くのでは?」と懸念して,室長であった西塚助教授(当時)に実状を打ちあけ相談すると,「内科から来た人が,スラスラ理解できるような事では,我々のレベルが問われますよ。まあ,半年は辛抱すべきですよ」とのこと。これは正に当然のことであり,気を取り直し毎日出席すると,3ケ月した頃には或る程度,理解できる状況となり,半年もするとより理解し易くなり,「継続は力なり」と実感した次第である。
 医化学教室で目の覚めるようなご指導をして頂いた早石先生はじめ,俊英がお揃いのご門下の方々に囲まれての1ケ年は,私の生涯において最も充実し,かつ,研究費の心配は皆無という恩恵にも浴し,アカデミックな雰囲気を存分に味わい得た特筆すべき貴重な時期であったことに加えて,早石先生をはじめ,教室の諸先生方には気持ち良く接して頂き感謝いたしている次第である。
 今回,百周年の節目とは存せず,失礼いたしましたが,多数の俊英をお育てになり,幾多のご偉業を成就された早石教授ご一門に続いて,本庶教授ご一門の益々のご活躍・ご発展を祈念しつつ筆をおくことに致します。(1964.4〜1965.3 京都府立医科大学) 


医 化 学 時 代 の 思 い 出

伊 藤 和 彦   
 学生時代に医化学教室に出入りして,後に大学院の4年間(昭和39〜43年)を過ごした。思い出を断片的に述ベたい。
 学生時代に当時6研におられた杉野幸夫助教授にお世話になった。あるとき「奨学金が入ったので先生飲みに生きましょう」とお誘いしたら,「奨学金は酒を飲む金でない」と即座にしかられましたが,君子豹変して百万遍に近い今出川通沿いにあった加茂八に一緒に飲みにきました。
 大学院の時,橘助教授のご指導で,娃の肝臓のカルバミルリン酸合成酵素を精製するために,神戸の中華料理店から取り寄せた食用蛙50匹を動物小屋で中西重忠君(現京大教授)と殺傷して肝臓を取り出した。2〜3時間かかり,うんざりして出てきたら,医化学1階の用務買室から天ぷらの匂がする。蛙の天ぷらをおしそうに食べていた。われわれは食べる気にならなかった。この精製酵素を兎に投与して抗体を作る作業をしたが,最後に針を刺して血液をとる段階で,大切な兎を殺してしまう不手際が起きた。兎が動なように力いっぱい押さえたために,兎は苦しくなつてもがいたようだ。
 私の初めての学会発表は大学院1年生の時で,名古屋で開催された日本生化学会総会であつた。何回も練習をして,スライドも吟味して臨んだはずであったが最初のスライドをお願しますと言って,出てきたスライドのタイトルが passway とスペルが間違っていたのを見て,急に鼓動が高まった。
 韓国から李民化先生(当時韓国の大学の生化学助教授)が留学されていた。帰国を前にして, 私の下宿で一杯飲むことになった。近某の店でかまぼこなど買って深夜まで飲んで楽しんだ。ところが,私は翌朝食中毒が疑われる腹痛とものすごい下痢をした。李先生も食中毒で苦しんでいるであろう,悪いことをしたと思いながら1日休んだ。2日後研究室に行ったら,李先生は元気でいる。食中毒の症状はまったくなかったとのことである。数種類の食物をすベて共通に食ベたのに,この違いは何が原因だつたのか。今まで経験したことのないひどい腹痛で下痢をしたのに。
 大学院4年生の末に直接の上司橘助教授は千葉大学生化学教授に栄転された。他の大学院生も去ってしばしの間研究室(4研)は私一人になった。私も3月末で離れるので冷蔵庫の試験管などの後始末をした。周りの人はすべて後片付けをして行けと言う。朝から夜まで流し台の前に立ってひたすら洗い物をした。爪が柔らかくなるまで。貧乏くじを引いたものである
 医化学教室で野球チームをつくり阪大生化学や京大薬理学と試合をしたのも楽しい思い出である。西塚泰美神戸大学学長は名キャッチャーでした。私は自称強打者であった。阪大生化学との試合でサードを守っていた私の一塁への悪投で負けたことがあり,穏和な野崎助教授におまえはくびだとお叱りを受けたことが思い出される。
(1964.4〜1968.3 京都大学医学部附属病院 輸血部 教授) 


あ  の  頃

中 村 重 信   
 英語で the prime of my life という言葉があるそうで,日本語でいうと「あの頃」あるいは青春ー盛りの年ということになる。私が京都大学医化学教室に在籍していたのは1961年から1968年,23歳から30歳にかけてであった。当時は早石 修先生がアメリカより帰国されたばかりで,医化学教室が青春の意気に燃えたぎっていた頃であった。丁度,私が学生時代に開設60周年の講演会が開かれたのを覚えている。確か,荒木寅三郎先生の銅像を前にして,古武彌四郎先生が講座創設の頃のインパクトのあるお話しをされたことを印象深く拝聴した。
 早石先生のお話しは学生のわれわれに,やる気を掻き立てさせるもので医化学を勉強すれば何でもすぐわかるような講義であった。その魅力に惹かれて医化学教室の門をたたいた。もう一つの動機は西塚泰美先生の迫力だった。西塚先生はわれわれ学生の実習にも熱心で,懇切丁寧にご指導下さるのだが,同じ実習を何度の繰り返すにつれて段々飽きてこられて,「わしは猿回しか?」とぼやいておられたのを思い出す。「そうすると,僕らは猿ですか?」と言い返したそうだ。世界としのぎをけずって研究しておられた西塚先生の横顔をかいま見た気がした。もともと,医者になりたくて医学部に入学したのだが,臨床の歯切れの悪さにうんざりする若い頃でもあったので,医化学を専攻することになった。ただ,医化学教室在籍中には早石先生,西塚先生をはじめ皆様に非常なご迷惑をおかけしたことを申し訳けなく思っている。
 臨床医になる夢が忘れ難く,1968年からずっと臨床の教室に籍を置いている。思えば基礎に7年,臨床に31年なので時間的には臨床の方が圧倒的に長く,若い頃を基礎の教室で過ごしたことを知っている人も少ない。近頃は臨床の医師らしくは振る舞っているが,時として医化学時代の顔がふっと現れる。お里は隠せないものだ。先日も,第70回日本生化学会の市民講座で「アルツハイマー病をどうして治すか」などという,おおそれた話しをする羽目になったのも「お里」のせいであろうと思う。また,徳島大学や名古屋大学で生化学の時間にアルツハイマー病など臨床の話しを非常勤講師としておこがましくも,学生にさせて頂くのも京都大学医化学教室のお陰と深く感謝している。早石先生の退官講義が「失敗は成功のもと」というもので,その実例として私のことを話して頂いた。自分は決して成功者と思わないが,しみじみその言葉を実感する今日この頃である。
 医化学教室の同門の先生方には,いろいろのお願いをしてご迷惑をおかけしている。早石先生にもいまだにお世話になり通しで,今年の11月に開く第52回日本自律神経学会で「睡眠の謎」という特別講演をお願いしている次第である。新しい記憶が忘れ去られ,古い記憶が鮮明さを増すのは脳の正常老化の過程であるが,旧故を大切にしたいものである。
(1964.4〜1968.3 広島大学医学部 第三内科 教授) 


三分の一世紀前:人生の大きな節目

上 原 悌次郎   
 京大工学部助手であった私は,1965年10月から67年3月まで約1年半,医化学教室で研究に従事する機会に恵まれました。今から三分の一世紀前のことです。53年に理学部化学科生物化学研究室(田中正三教授)に配属され,水稲への有機水銀剤の影響(卒論)と稲の根の pyruvate decarboxylase(修正論文)の研究を行いました。博士課程から工学研究科工業化学専攻(高田亮平教授)に移り,天然物中の未知の生理活性物質の研究を始め,麹菌々体中に,リポ酸の代りに乳酸菌のピルビン酸脱水素を促進する物質の存在を認め,本物質の分析とともに酵素化学の面からも追究を試みましたが,明確な成果を挙げることができず悩んでいました。その頃,理学部の先輩であり,医化学で代謝調節グループの中心であられた徳重正信博士のお勧めにより,早石先生と,高田先生の後任の福井三郎教授のお許しを得て,医化学に‘留学’させていただくことになりました。しかし,二足の草鞋を穿くのは容易なことではなく,実験の合間に自転車で工業化学に走り,直接指導を任されていた学生達に慌ただしく指示を与え,直ちに医化学に飛んで戻るという毎日でした。枚方の自宅に帰るのは毎晩11時頃,若かった私は夜中にたらふく夕食を摂り,すぐに床に入り,6時に起きて朝食,7時には出かけるのが日常でした。そのため,学生時代からの理想の体重 60 kg の大台はアッと言う間に通過して,1年余りで 65 kg を超えてしまいました。厳しく,忙しい早石研で肥るとは余程神経が太いと冷やかされました。その後,就寝2時間前からの食事は控えていますが,今に至るまで 66 kg を割ったことはありません。
 医化学での研究テーマは大腸菌 threonine deaminase の誘導生成でした。酵母エキス中に,静止菌での本酵素の誘導を促進する物質の存在を認め,直ちにその同定を試みましたが,液クロの無かった当時では水溶性の高い未知物質を酵母エキスから単離するのは決して楽ではありませんでした。大学院時代の経験から,正面切って分析を行うよりも,既知物質の中から有効物質を探すのが近道であると考えていた丁度その頃,西塚助教授からアミノ酸ではないかとのご指摘を受け,早速調べたところ,有効物質はスレオニンとセリンであり,両者は相乗的に誘導効果を示すことを見出し,その結果を報文にまとめることができました。この発見が,後に本酵素の大量精製に役立ったことを知り,せめてもの恩返しができたと嬉しく思いました。医化学では,当時,まだ珍しかった新しい機器や貴重な試薬を自由に使うことができ,その上,テクニシャンの方々がガラス器具等の洗浄をして下さるのが,とてもありがたかったのを覚えています。また,何よりも酵素化学はもちろん,生化学一般の方法論を広く学び得たことは,前記の乳酸菌のピルビン酸脱水素反応ばかりでなく,その後の私の全ての研究の発展に非常に役立ちました。あの懐かしいランチゼミでは,早石先生をはじめ,研究室構成員の方々,そして内外の著名な先生方の実り多い討論に接し,当時最先端の生命科学の諸分野のお話を聴くことができたばかりではなく,大事な実験上のヒントを数多く与えられました。さらに,京都国際会議場で早石先生が主宰された代謝調節の国際会議に出席させていただき,スライド係の1人として Monod 教授をはじめ,まさにその道の世界第一流の方々のお話を伺うことができたのは望外の幸せでした。そのご縁もあって,Holtzer 教授にはその後も親しくしていただきました。
 早石先生から多くのことを学ばせていただきましたが,特に,1つのことを掘り下げて行けば必ず大きな,普遍的な水脈を見出すことができると言う意味のお言葉は忘れることができません。私も酵母の形態形成や細菌の硝酸呼吸についてそれなりに新しい事実を見出し,京大退官後,私学における講義と演習だけの勤めの傍ら,奈良女子大等2,3の研究室のご協力のもとに,細々ながら研究を続けていて,何らかの水脈に到達したような気になっていますが,未だ普遍的な意義を見出すには至っていません。この意味でも私は早石先生の不肖の弟子に過ぎませんが,先生から折に触れて温かいお言葉をかけていただき感激しております。大阪バイオサイエンス研究所長をご退任の際,今後も一研究者として研究をお続けになると伺い感動しました。早石先生と,当時の教官,職員,研究員の皆様,今や優れた学者,研究者としてご活躍中の当時学生の皆様方に,改めて厚く御礼申し上げますとともに,お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたします。(1965.10〜1967.3 大阪体育大学教授,京都大学名誉教授) 


Kynurenine → NAD+ → Cyclic ADP-ribose

岡 本   宏   
 これは約30年前に山本尚三先生のご指導のもとに出来上がった論文〔BBRC26,309(1967)〕であります。この Kynurenine hydroxylase といいますのは,早石先生らが見つけられた Tryptophan から NAD+ 生合成に至る Kynurenine の3の位置を水酸化する酸素添加酵素であります。ラットに Thyroxine を投与しますと,この酵素活性が低下し,肝臓の NAD+ 量が60%に低下します。また,Tryptophan と Niacin free の食餌でも NAD+ が減ります。ラットが生きている限り60%以下には下がりません。Thyroxine 投与を中止するか,普通の食餌にしますと NAD+ 量は元に回復しますが,ここで注目すべきことは,たかだか40%の回復に10日以上もかかるということです。ところで Alloxan と Streptozotocin は膵臓のランゲルハンス島 β 細胞を変性させ糖尿病を発症させます。即ち,Alloxan,Streptozotocin によりランゲルハンス島 DNA は短時間で切断され低分子化します。DNA の切断によりポリ ADP-リボース合成酵素が活性化され,基質であるランゲルハンス島の NAD+ は著しく低下します。このように短時間で数%以下に低下した NAD+ 量は回復する見込みがなくランゲルハンス島 β 細胞は死の運命をたどるしかないと考えられます。従って,Alloxan,Streptozotocin さらにはいろいろの要因による β 細胞の変性は DNA 切断,ポリ ADP-リボース合成酵素の活性化,NAD+ 量の低下という一連の機構で説明できないかと考えたわけであります。今年になりがんセンターの杉村先生のグループ,ドイツ,米国のグループがポリ ADP-リボース合成酵素遺伝子のノックアウトマウスに Alloxan,Streptozotocin を投与しても β 細胞の変性は起こらずマウスは糖尿病にはならなかったのであります。また最近になり,虚血による脳細胞の死も全く同様のメカニズムで起こることが報告され,Fas などが関与する programmed cell death 以外の突然のいわば外来の要因による細胞死はポリ ADP-リボース合成酵素の活性化だけで説明できるのではないかということです。ところで,比較的少量の,Streptozotocin の投与ではインスリンの分泌の低下が起こります。従って,NAD+ の低下とインスリン分泌の低下をどのように説明したらよいかと考えていたわけでありますが,1987年,ミネソタ大学の Lee らはウニやアメフラシの受精卵膜の形成に Ca2+ が重要であり,この Ca2+ 動員にはイノシトール3リン酸,IP3,だけでなく cyclic ADP-ribose という NAD+ から作られる,環状の化合物も関係していると報告したのであります。当時,この cyclic ADP-ribose はウニやアメフラシなどの下等動物にだけ存在するのではないかと考えられあまり注目されなかったのであります。我々はランゲルハンス島の NAD+ が relative に低下し,どうしてインスリン分泌が低下するのかという問題は NAD+ の低下による cyclic ADP-ribose の低下ということで説明できるのではないかと考えたのであります。そして,「グルコース→ATP→CD38→cyclic ADP-ribose→Ca2+→インスリン分泌」という一連の過程を明らかにし,新しい情報伝達系 The CD38-cyclic ADP-ribose signal system が考えらてきたのであります。我々は元来「細胞の運命」ということを考えてきたのであります。細胞の種類は何でもよかったのでありますが,インスリン分泌という明確な function を示し,病態的にも重要ということで β 細胞を選んだのであります。そして,細胞の正常の機能発現,変性あるいは死,がん化,そして本日は時間の関係でお話ししませんでしたが再生といった問題を考えてきたのであります。そして,変性の場合,正常の機能発現 (The CD38-cyclic ADP-ribose signal system),さらに細胞の再生増殖に関与する reg という遺伝子ファミリーの問題も,全て NAD+ の意義づけから考えられてきたのであります。このようにテーマが過去,現在,未来と,時とともに移りゆく中に何らかの「つながり」とか「統一」とかいうものがなければ,研究ひいては我々自身の存在がはなはだ不安定なものになってくる。その「つながり」の一つが NAD+ であり,その「きっかけ」がはるか30年前の山本先生との研究にあったのではなかったかと思うのであります。有難うございました。(平成11年3月15日 徳島大学山本尚三教授御退職記念講演会からの抜粋) 
(1965.4〜1971.9 東北大学大学院医学研究科 生物化学 教授) 


私 と 医 化 学 教 室

稲 垣   彬   
 学生時代,早石先生の講義が大変すばらしく楽しかった。毎回のように誰がこれでノーベル賞をとったと言う話がでてきて,非常に印象深かった。それで学部の4回生頃から医化学教室に出入りするようになり,インターンの時は京大病院が実習病院だったので,よく医化学教室に出入りし実験の手伝いなどさせて頂いた。それで早石先生に目をかけられて大学院は医化学に来るようにと熱心に進められたが,臨床医になろうと思って医学部に来た初心が捨てられず,結局内科第一講座の大学院に進むことになってしまった。大学院に入ってからもこれからの Research は医化学的な方法や考え方が一番重要だと思っていたので,大学院の2回生の頃から1年半程医化学教室に学内留学させて貰う事になった。将来臨床での研究に役立てるには動物の組織を使った実験が望ましいと考えたので, 当時橘 正道助教授がマウスの Hematopoietic spleen を使ってピリミジンの生合成の研究をされていたので,橘先生のご指導を受ける事になった。橘先生自身は大学院生だった伊藤和彦さんと,Carbamoyl Phosphate Synthetase の研究をされていたので私は次の Step の酵素である Aspartate Transcarbamoylase の研究をした。橘先生は大変厳しい先生で,毎朝9時頃研究室に行くと先生が待ち構えて居られて,前日の実験についてはげしい議論になる事もしばしばあった。実験の1から10までとにかく徹底的に教えて頂いた。徹夜で実験したりすると徹夜して実験するような Plan が悪いと又叱られることもあった。この時代の経験は後で考えると非常に有意義なものであったと思われる。内科に帰ってからの研究にも自信を持って出来るようになった。研究室に入って2年目の時に中西重忠先生が大学院の1回生として入って来られ,私が遠心機の回し方などごく初歩的な事を教えさせていただいた。現在大変立派な研究者になっているのをみると感無量であります。当時寺田雅昭さん静田 裕さんも同じ研究室で親交を結ばせて頂いた。又特筆すべき事として,橘先生に教えて頂いたのは医化学の外にスキーがある。橘先生は大変なスキーマニアであられ,先生に熱心にすすめられてスキー道具一式を揃えて橘先生など研究室一同でスキーに行った。この時スキーが大変楽しかったので,その後ずっとスキーを続けるきっかけになった。現在も毎年冬になると3〜4泊で2回くらい北海道にスキーに行っている。
 現在私は大阪の樟葉で内科医として開業しているので医化学の研究とは縁がなくなったが,時折,青春の情熱をかけて研究にいそしんだ当時の事を懐かしく思い出している。
(1966.4〜1968.4 稲垣医院) 


フ ラ ッ シ ュ バ ッ ク

上 田 國 寛   
 昭和37(1952)年の1月だったと思うが,当時医学部本科1回生だった私は,午後の教室で生理学の講義を待っていた。その時,級友の一人が「教室の外で誰か君を捜しているよ」と言ってきた。階段教室から中庭に出てみると,見覚えのある医化学の谷内 敝先生が,前夜来の雪のチラホラ舞う中,半ば融けたぬかるみの中に立っておられた。会釈して近づくと「やあ,元気にしてる?」と声をかけられた後,「春休みに森(正敬)君らとまた実験に来てみないか」と誘いを受けた。その前年,医化学恒例の希望学生に対する夏期実習で,5研(谷内グループ)の金綱史至先生の指導の下,“Methods in Enzymology”を片手にグルコース脱水素酵素を精製したのが評価されたようだ。学部1回生といえば,4月に早石先生から「生命の神秘は諸君を待っている」と吹き込まれ,全員が舞い上がる医化学の講義がある。小さい頃からパストゥールや野口英世伝に親しみ,漠としてではあったが基礎医学の研究にあこがれていた私は,この誘いをうれしく受けた。
 人生には,後で振り返って,その後の経路を決定したと思われる瞬間がいくつかあるものである。この冬の午後,谷内先生がわざわざ声をかけに来て下さったことは,その後,キヌレン酸やキサンツレン酸オキシゲナーゼの研究をお手伝いし(本当はお邪魔だったかもしれないが),谷内先生が米国に留学された後も実験を続けさせてもらう縁につながった。セミナーや読書会を通じて,生命の神秘が次々と解き明かされて行く様子に瞠目,感激した私は,生化学(それは黎明期の分子生物学だった)へ急速に引きつけられて行った。
 この時期,大した成果を挙げられないまま,同室の小島 豊先生や中澤 淳先生に大事にしてもらったお陰で,研究は結果が出なくても実に楽しいものだということを知った。その頃であったか,研究室に回って来られた早石先生が「自分が科学者になってよかったと思うことの一つは,自分の研究でなくても世界の一流の研究者の研究を味わう楽しみを得たことだ」といわれた一言は,今も私が折々に感ずる実感である。
 インターン1年の後,専攻した医化学の大学院で,私は2つめの決定的瞬間に遭遇した。手元にある実験ノートによれば,それは昭和41(1966)年8月23日である。この4月から西塚泰美先生の下で始めた“NMN による‘ポリ(A)’合成の奇妙な活性化効果”(4年前に P. Chambon らが報告していた)の研究の中で,私はその夕方,はじめて自分で合成した [14C]NAD の取り込み実験を行った。予感がないでもなかったが,ガスフローカウンターのスイッチを入れた時,一瞬何が起きたのか分からなかった。カウンターの数字盤が赤く点滅した後,一斉に真っ赤になってしまったのである。それが高すぎるカウントのため連続放電を起こしたのだと気付くまでに何秒かかったろう。フーンという感慨と「思った通り,ATP からのポリ(A)でなく,NAD からのポリ(ADP-リボース)合成だった」という満足感は,なぜかその時それ程大きくなかったように思う。RI 実験室から6研に戻り,西塚先生のお宅に電話を入れた。先生はこの日も持病のストレス性腹痛のため,「いい結果が出たら,電話を」と言い残して早めに帰宅されていた。“いい(以上の)結果”が出たことを報告すると,「よかったね。こんなことは科学者でも一生の中何回もあるものではない。この経験をした君はもうこの道から逃れられないね」といわれた。ビギナーズラックという言葉を知らなかった私は,そんなものかなと思ったが,事実は正にその通りになった。
 以来30余年,私はまだ生命の謎,特にポリ(ADP-リボース)の虜になっている。その後,医化学の先輩である故村地 孝先生の臨床検査医学に移り,そこで始めたアルツハイマー病の研究が,最近ポリ(ADP-リボース)と接点をもちそうになってきたのは,機能不明のこのポリマーと長年つき合った者への小さな褒美かもしれない。アルツハイマー病患者の脳の切片をポリ(ADP-リボース)の抗体で染めて,不思議な染色像を見出した時が,後で振り返れば3つめの決定的瞬間だった,かもしれない。
 私が今日も楽しく研究できるのは,医化学の恩師や先輩の教えと励まし,そして同僚や後輩(特に研究を共にしてくれた岡,成宮,中尾,井階,岡山,緒方,川市,稲田,大橋,畠山,金,張,エドソン,バナシクの諸君)との思い出のお陰である。その一つ一つが今,かけがえのない宝物として,私の眼裏を横切って行く。(1961.7〜1985.10. 京都大学化学研究所 教授) 


医 化 学 教 室 の 思 い 出

中 西 重 忠   
 私は1966年からの4年半の大学院時代,1974年からの6年半の助教授時代と医化学で11年間過ごし,その後も偶然にも医化学教室を見おろす隣の建物に教室を持ち,さらに早石,沼,村地,小沢,伊藤先生がおられる教授会の末席を汚すという機会を得,良くも悪くも私は医化学の培養器の中で純粋培養されて育ったような研究者ではないかと考えている。
 医化学時代は,昼のランチセミナー,土曜日のグループ単位のプログレスレポート,夜の大学院セミナーといった研究者としての訓練を受けた思い出だけでなく,毎夏の海水浴旅行,芋掘りや銀杏ひろい,医化学温泉風呂,階段下の大川テレビ娯楽室と医化学出身者の他の方と同様どれをとっても思い出の深いもので,医化学時代はまさに私の研究者としての青春時代を過ごした時という感がある。医化学出身者として教えられた事は数知れないが,その中でも印象深いのを挙げると,第1に,1966年の東京での国際生化学会に医化学教室が我々大学院1年生にも旅費と滞在費を支援して下さり,我々に学会参加の機会を与えて下さったことである。私自身,学生時代基礎研究の道に入るとは余り考えていなかったことや,英会話なぞは日本男児のすることではないと思い込んでいたので,英会話の能力は全くゼロであった。しかし,国際生化学会に参加してみて,自分がこれから進もうとする道はまさに international な世界に入ることを意味すると愕然とする思いを感じたことが今でも強い印象として残っており,この様な機会を大学院1年の時に与えて下さったことを大変感謝している。第2に,アメリカの留学時に分子生物学に飛び込んだ私が,帰国時にアメリカで早石先生にお会いし,分子生物学を継続する意志を告げたときに,「アメリカで分子生物学で活躍した日本人も日本ではしばしば駄目になりますよ」と喝をいれられたこと,又新しい教室を担当し神経ペプチドの研究でそれなりに成果を挙げていると思っていたときに「医化学時代のペプチドホルモンの研究の横すべりに過ぎない」と沼先生の厳しい指摘を受けたことは今でも強烈な印象として残っている。一方では,独自の道を拓こうとしている時には何度となく暖かい支援を両先生から受けてきた。
 結局,医化学出身者として教えられたことは,早石,沼両先生とも science をこよなく愛し,science をやるからには international なレベルで認められる医学・生物学の基本的な原理を明らかにするというきびしさと,又 science は一生かけても尽きない喜びを与えてくれるものであるという基礎研究者の道でなかったかと思う。
(1967.4〜1971.8 京都大学大学院生命科学研究科 認知情報学 教授) 


医 化 学 に 魅 せ ら れ た と き

本 庶   佑   
 昭和35年に京都大学医学部進学課程にへ入学し,1年間宇治分校で安保闘争などに巻き込まれ,勉強もほとんどせずにようやく吉田分校へ移って来たころ,柴谷篤弘氏の「生物学の革命」という本に出会った。この本は私にこれまでの生物学=分類学のイメージを変えさせ,自然科学としての生物学に目を開かせるきっかけとなった。柴谷氏は当時,父が教授をしていた山口大学医学部の教養部に在籍して居られた縁で,早速にお目にかかってお話を伺った。先生に「Selected Papers on Molecular Genetics」などの本を紹介され,十分には理解できなかったがその考え方に大変感銘を受けた。
 翌年,医学部専門課程に進級し,長期米国出張から帰国された早石 修先生のアミノ酸代謝の明解な講義に魅了された。夏休みから医化学教室に出入りし始め,あの蔦が絡まり昼も蚊が足元から忍び込む6研の窓際の一角に座る場所を与えられた時は大変うれしく研究者の卵になったような気がした。当時6研には,大学院生の市山 新先生や学部4回生の中村重信先生,精神科の院生である出口武夫先生,川合 仁先生などの論客がおられ,多いに啓発された。西塚泰美先生の指揮下,6研は NAD metabolism の解明で多いに意気が上がり,皆颯爽とまた溌剌と朝早くから夜遅くまで,勉強と実験をしておられた。最初はセミナーや先輩方の議論がチンプンカンプンであったが,一念発起して春休みに山口大学医学部図書館で NAD に関する論文を片っ端から読んだおかげで NAD の metabolism やその重要性についておおよその理解ができ,以後生意気にも大学院の先生方の議論に口を鋏むことができ,多いに気を良くした。当時の医化学セミナーはウイルス研,薬学部,理学部の先生も参加され,まことに活発で厳しい質問に立ち往生される先生も少なくなかった。西塚先生は一年間リップマン研究室に留学され,短期間に当時のタンパク合成の中心的な課題であった GTP 必要性に関するタンパク質 G-factor の同定をされ,颯爽と帰国され,これまでの metabolism の研究から新たな方向へと模索され,常に机に向かって煙草をふかし,深く考えておられる姿がきわめて印象的であった。その中でポリ ADP リボースの仕事が始まり,インターンの間私もその一部を分担させていただき,その不思議な分子には多いに魅せられた。
 やがて大学院に入り,それまでの見よう見真似の修練のお陰で自分でテーマを選ぶことが可能となり,夏休みまでは西塚先生の真似をして何をやるべきかじっくりと考えてから研究を始めようと思い,インターン時代からの続きの後片付け以外は実験らしい実験はしなかった。6月頃にふと目にした JMB にジフテリア毒素の毒性はタンパク合成の阻害であり,さらにそれには NAD が必要であるというきわめておもしろい Collier 論文を見つけた。6研にあるタンパク合成酵素に関する知識と NAD metabolism の実績及び材料を結び付ければ,何故 NAD がジフテリア毒素によるタンパク質合成阻害に必要であるのか必ずや解けると予感した。6研の人達と早石先生の前でこの話をしたら,早石先生が「鴨がネギをしょって来たようなものだね。」と言われた。幸いにしてこの問題は,開始してから半年でほぼその全貌が明らかとなった。この研究の過程で私はジフテリア毒素が酵素ではないかと思い至る実験結果を得た。そこで,逆にジフテリア毒素が酵素であれば,このようなことが起こるはずであるという仮定に基づき実験を組んでいくと,幸いにもそれがことごとく当たった。このことによってサイエンスの進め方として明確な仮説を提唱し,それを検証する形で実験を進めることがいかに痛快で,また有効であるか(しばしば悲惨でもあるが)ということを学び,これがその後の私の研究者人生に多大な影響を与えた。あの天井が高く,蔦の生茂った医化学教室に早石先生が巾広いビジョンのもとに築かれた素晴らしい環境の中で,多くの良き先輩や後輩と切磋琢磨できたことは誠に貴重な研究者としての出発点であった。あのような素晴らしい環境が今後も医化学教室の伝統として末永く維持できることを願って止まない。
(1967.4〜 京都大学大学院医学研究科 分子生物学 教授) 


あ の 頃 の こ と

金ケ崎 史 朗(士朗)
 早石先生の最初の論文の共著者である故尾田義治教授の紹介状を携えて,旧京大医化学の古い大きな建物の3階に,早石 修,故沼 正作両教授をお訪ねしたのは確か1968年の2月かと思う。その紹介状には,東北の代表選手金ケb武者修行させたいとの意が記されていたと承っている。尾田先生とは所属は違ったが,同じ阪大出身で医学部の教官をしておられた故樋口昌孝先生を通じて親交を深め,仕事の話など良く議論して頂いた。当時東北大学の大学院修了を間近に控えて将来の方向性を探りつつあった私には,国内最高の生化学のメッカで修行できることは,大変心の弾むことであった。沼教授には早速,同教授を始め石村巽先生などが寄宿していたという病院前の山田錦林医院内に下宿を世話して頂いた。大川さんは早々とピペット台を作ってくれた。
 沼教授は前年の秋に独逸から帰国されたばかりで,この第二講座は石村先生が(仮の)助手,
大津英二,岡崎武志,中西重忠などの大学院生と私という発足始めの小じんまりした世帯であった。私が当初1人で入れて頂いた12研の隣には一講座の中沢淳,故徳重両先生,同じ2階には中沢晶子先生もおられた。この他,当時助教授の橘正道先生が千葉に移動準備中で,西塚泰美,野崎光洋,市山 新,藤沢 仁の各先生に加え,岡本 宏,静田 裕,上田國寛,本庶 佑などの優秀な大学院生が目白押しで活躍していた。その後のこれら各先生の活躍を見れば,この時代が早石研にとって第1次の黄金時代ではなかったかと思っている。この時期に各先生方と交遊を深めることが出来たのは,その後の私の研究生活にとって大変幸運なことであった。丁度この頃,大学院時代に米国に出していた手紙の返事が届いて留学先が最終決定し,医化学には年末までのみお世話になることにしたが,米国への出発前の泊まり込みでの論文の推敲や Federation Meeting の要旨や発表原稿の作成など,最後の最後まで充実した日々を送らせて頂いた。
 後年,沼教授のように私も米国留学後いったん日本に戻り,再び独逸に留学することになって,米国・日本とヨーロッパの人たちの人生観,生活観の違いを実感することになるのだが,あの厳しいと言われる先生が折に触れ私に京都見物をするように勧めてくれたのは,多分まだ独逸留学の影響が残っていたからと思っている。京都の祭りについては前日か当日徳重先生が必ず教えに来てくれたし,岡崎先生にはしばしば最も京都らしいところや行事を案内して頂いたので,仕事以外にも充分滞在を楽しませて頂いた。後に酸素に直接関係のある仕事(食細胞の活性酸素産生機構やその先天的機能異常症)に取り組むことになるとは,当時の私はつゆ思わなかったが,早石研の先生方との付き合いにより酸素分子についても大分勉強させて頂いた。またこの時の御縁で,後年,慶應に来られた石村教授グループとの共同研究により,好中球により直接産生されるのはスーパーオキシドのみでこれを総て細胞外に放出するという,今では多くの教科書に模式図が書かれている事実の発見と証明を行うことができた。一方,米国留学中も,同時代に米国に来られた中沢先生ご夫婦との親交を深めることが出来,帰国後は地理的にも近いところに職を得たのでお話をするのが大変楽しかった。市山先生も当時東大におられ,私の帰国にご助力頂いたと聞いている。
 米国滞在中,1度 Gordon Conference の帰りに早石先生が Boston に立ち寄られ,車で山の方にお連れしたことがあった。この時,君,米国にも日本にもあまり人はいないんだよというお言葉を伺い,米国への長期滞在の決意を一層強くした私であったが,機会があって今の職場に職を得ることになった。帰国後は医化学で何度かセミナーをさせて頂いた。ある時,食細胞の異物識別には両者がある程度以上の力で接触する必要 (impact force) があることを証明したことをお話したが,当時の沼先生はなんだ molecular の話じゃないのかとがっかりされていた。きちっとした仕事をしたいと内科学から酵素学に進み,さらに勃興期の分子生物学を取り入れて研究を進められていた先生には,なぜ私が当時そのような仕事をしているのかを充分ご理解頂くことが出来ず,残念に思ったことを覚えている。
 30年以上も前の短かった京都滞在ではあったが,青春時代の一時期大変 impact の強い時期を過ごすことが出来たと,定年をひかえた今でも感謝している。
(1968.4〜1968.12 東京大学医科学研究所 細菌感染研究部 部長) 


医 化 学 教 室 の 夏 の 思 い 出

堀  和 子   
 私が初めて医化学教室に入門(?)したのは今から約30数年前,M1 の夏休みの事です。早石先生から医化学の最初の講義で,「今年の学年は大変優秀である。」と,にこやかに褒めて頂き,クラス一同いい気分になりました。しかし,後日談で毎年そうおっしゃっていたとの事でした。「夏休みに興味のある人は教室に来るように」との一言に誘われて大勢の同級生が希望を出しました。実際はクラスから1,2名の人が将来入門しやすいようにとの配慮だったらしいですが,あまり希望者が多かったので1人当たり2週間ずつ,各研究室に振り分けられました。私は2研の徳重正信先生のお部屋に入れて頂きました。徳重先生はアメリカから帰国されたばかりで教授室の隣のお部屋におられ大変張り切っておられました。同室には関西医大薬理学教室・稲垣千代子教授の御夫君である稲垣 彬先生(当時M4),塩野義製薬研究所の平田雅春氏,米国からの Helen R. Whiteley 女史がおられました。それぞれ,立派なお仕事をなさっており,活気あふれた雰囲気の中で私は薄層クロマトを展開したり有機酸の滴定曲線を作成したりして2週間の実習はあっと言う間に過ぎました。研究とは程遠いものでしたが,その後,徳重先生からよく冗談で「僕の1番弟子だ」と云って頂きました。
 翌年の夏休み,活気あふれる雰囲気が忘れられず,休暇の半分を医化学教室で過ごす事にして,同級生で親友の森 由美子先生(旧姓飯田;熊本大学・森正敬教授夫人)と再び医化学教室を訪れました。この時は中澤 淳先生に threonine deaminase の精製を教えて頂きました。当時のフラクションコレクターはよく途中で止まるので活性分画は昼間に出す方が安全だったのですが,運悪く夜間にトラブルが生じて活性の大部分を失い,がっかりしたことを覚えています。
 この頃,医化学教室には研究以外にも人生を楽しむ趣向がありました。5研が中心だったと思いますが,ひと月に1度,美味しいものをはしごで食べ歩く会があり,私も一緒に連れて行って頂きました。詳しくは忘れましたが,樽うどんと田楽の味は今も覚えています。又,皆で琵琶湖の北の方に水泳に出かけ,バンガローで一泊して蚊に山ほど咬まれました。
 医化学教室には学生時代から研究室に入り,既に立派な業績をあげておられる先生方が多数おられましたが,私の場合,何でもトライの精神で,医化学教室以外にも首を突っ込み,教えて頂いた先生にはさぞかし足手まといの学生だった事でしょう。
 その後,私の学部の学生時代は立派な医者になるべく勉学にいそしみ(?),医化学教室とは無縁になっていましたが,インターンを修了後,結局,基礎医学に進もうと決心をして医化学教室の大学院生になりました。大学院では中澤晶子先生,野崎光洋先生に教えて頂き,研究者としての基礎はこの時代に培われたと思っています。その当時は大学紛争でヘルメットをかぶったお兄さんがやって来て自己批判せよと研究ストップになったり,幼子を2人かかえての大変な大学院生活でした。卒業後しばらくして,新設の兵庫医大に赴任して以後,はや26年が経ちます。こつこつと研究したり,学生を教えたりする事を喜びとしていますが,時折,何も知らないくせにチャレンジ精神旺盛できらきらしていた夏の日をなつかしく思い出します。
(1968.4〜1973.3 兵庫医科大学 生化学 講師) 


医 化 学 教 室 の 思 い 出

山 村 博 平   
 神戸大学医学部生化学講座の白井陽一教授の御紹介で私が医化学教室にお世話になったのは,大学院に入学した昭和43年4月から翌年の2月末の11ケ月間でした。早石 修先生に初めてお会いした時は緊張の余り声も震えたが,意外とやさしそうな先生で安心したことを覚えている。ついで沼先生,野崎先生に御挨拶し,沼先生に早速生化学の質問をされ答えられず,冷や汗をかいた。翌日お会いした西塚先生には,生化学のことは何も知りませんが宜しくお願いしますと,先手を打ったところ,『何も知らん方がええんや』と言われ,その言葉を信じて大きな顔をしてお世話になった。当時の医化学教室は日本の生化学のまさにメッカであり,多くの俊才が集まっていた。到底私のような無知の者が入れていただけるところではなかったが,早石先生のご好意でおいていただいた。そして西塚泰美先生のグループ(6研)に配属され生化学実験のイロハを上田國寛先生に教えていただいた。とにかく毎日が目あたらしい事の連続で,丁度田舎者が初めて都会に出てきたように圧倒され通しの日々であった。
 毎昼食時にあるランチセミナーも苦痛のひとつであったが,1年先輩の本庶 佑先生が堂々とランチセミナーをされるのには圧倒された。当時の6研には西塚先生,市山先生,藤沢先生,上田先生,本庶先生,吉原先生,奥野さんがおられ,皆悠々とマイペースで仕事を進めておられた。夏からは武田誠郎先生と一緒に医化学の RI 研究室で蛋白質の燐酸化の仕事を始めた。こじんまりした良い部屋であったが,石の机の冷たさには閉口した。昼休みにキャンパスの片隅のコートで野崎先生,市山先生,中沢晶子先生達と一緒にテニスをしたのは楽しい思い出である。西塚先生が新設の神戸大学医学部第二生化学の教授に決まり,新しい教室を作られることになりに御一緒することになった。この頃は大学紛争のまっただ中で,大学封鎖のうわさの中,慌ただしく荷物をまとめて逃げるように京都を去ったので,別れの挨拶も十分にできなかった。振り返ってみると今,私が生化学の世界で生きて来られたのは,医化学教室に国内留学させていただいた白井先生と受け入れて下さった早石先生のお陰といつも感謝している。
(1968.4〜1969.2 神戸大学医学部 生化学第一 教授) 


医 化 学 教 室 で の 思 い 出

武 田 誠 郎   
 私が京大医化学教室に在籍したのは1968年の9月から翌年2月までである。その間,早石,沼両教授はもとより,今も御交誼を賜わっている多くの方々の知遇を受けた。また驚くべきほど多くのことを学び,真に私の人生のエポックメーキングな期間であった。初めは副手,11月に留学された市山先生の後任の助手にしていただいた。これが私のプロとしての第一歩で,早石先生が私の最初のボスである。早石先生が御出張で沼教授から辞令を手渡され,煉瓦建ての病理棟におられた岡本耕造医学部長に挨拶に行った。小使いさんと見間違う様な岡本先生の風采に京大魂を感じた。まず,昼の抄読会で米国でやった枯草菌のタンパク合成開始とその後の N 末端修飾の仕事を報告した。まもなく,西塚先生は,神戸大学医学部に新設された生化学第二講座の教授に内定された。私は西塚先生に付いて神戸に転任することが決まっていたので,神戸で継続する核蛋白質のリン酸化の研究を始めた。当時,早石研でタンパク質の ADP リボシル化反応が発見され,本庶,上田,吉原の諸先生が院生として6研で西塚先生と共にこの反応を研究しておられた。6研にスペースが無いので神戸大学の院生であった山村先生と私はアイソトープ研でラット肝からクロマチンを抽出し,これに光合成を利用して調製した
P32ATP を加え,核タンパク質のリン酸化を解析した。クロマチンのリン酸化と DNA 依存性ポリ ADP リボース合成との間に関連はみられなかったが,この研究は神戸大学でのカゼインキナーゼ I と II の発見に進展した。ある日,アイソトープ研に,早石先生が来られ,「この論文はあなた方がやっている実験に関係が深いと思って持ってきました」と言われ,論文のページを開けて新着のサイエンスを石机の上に置いて行かれた。ラット肝のヒストンリン酸化酵素が環状 AMP で活性化されると言う T. Langan の論文であった。この論文は神戸大学での A-キナーゼの活性化機構の解明に繋がった。アイソトープ研で中庭を見ながら洗い物をしていると,早石先生がスライド係の上田先生を従えて学生の講義に向かわれた。こっそり講義室にもぐり込み先生の講義を拝聴した。アミノ酸の窒素の排泄の講義で,黒板に魚と人と鳥の絵を描かれ,講義にえも言われぬおかしみを醸し出された。後で私に「今日の講義はあまり大した所ではありません,もっと面白い所の講義を聞いて下さい」と言われた。学生実習では鶏の赤血球から DNA を抽出する項目を担当した。大川さんが鶏の両眼を片手で被い,頸動脈に包丁を静かにあてて採血する見事な手さばきが脳裡に焼付いた。
 西塚先生は1969年1月発令で神戸大学に着任されたが,当座実験する場所が無く,早石先生の御好意で私共はアイソトープ研で実験を継続させていただいた。折しも,京大医学部では学園紛争が日に日にはげしさを増し,封鎖をしに来る学生を阻止するため北門と南門に助手や技官が交代で立った。セミナー室に早石先生,沼先生はじめ医化学全員が集められ,民青の一学生が「あなたたちは民衆のためになる研究をしていますか」と詰問した。両教授は無言で,上田先生が受け答えされた。2月には入り事態はいよいよ悪化し,山村先生と私は,わずかな実験材量と大川さんの作った岡持ちと木製ピペット台を持って神戸へ都落ちした。直後,医化学教室は学生によって封鎖された。在籍中,早石先生には ADP リボシル化で助成を受けられた記念に万葉軒でフランス料理を,市山先生の留学に際して市山,藤沢,武田が皆夫婦で日本料理を御馳走になった。早石先生の私に対するスタンスは絶妙で,研究者,教育者,指導者としての並はずれた先生の力量を目の当りにし,肌で感ずることが出来たのは無上の幸せであった。(1968.9〜1969.2 広島大学医学部 生化学第二 教授) 


沼先生から頂戴した研究テーマ

山 下   哲   
 もう30年以上も前になる。当時私は2年間の米国留学を終えたばかりで,ちょうど第二講座の教授になられたばかりの沼先生の助手に採用され,挨拶のために医化学教室を訪ねた時のこと,沼先生にどのようなことをやらせて頂けますかと伺ったところ,自分の研究室は2本の柱で立てるつもりだ,一本はアセチル CoA カルボキシラーゼ,もう一本は膜のリポプロティンの研究を考えている。山下さんにはそちらの方を分担してもらいたいということだった。沼先生は若いころ,ハーバードのオンクレー教授のもとで血清リポプロティンの研究をされたので,先生の頭の中では膜にも血清リポプロティンのような構造があって,それがモザイクのように並んで膜が出来上がっているというイメージがあったようである。なにしろシンガー,ニコルソンの流動モザイクモデルが提出されるよりだいぶ前の話である。私のほうはミトコンドリアの酸化的リン酸化の仕事をしたときリン脂質を入れると再構成が魔法のようにうまく行くという経験をしたので,同じ膜をやるならぜひともリン脂質合成の仕事をやらせて欲しいと願い出たところ,それならコーンバーク,プライサーの系はどうですかと言ってくださった。これはミクロソームのグリセロリン酸と2分子の脂肪酸 CoA からホスファチジン酸を生成するもので,沼先生がお好きだった経路の初発酵素でもある。ホスファチジン酸合成はアセチル CoA カルボキシラーゼの阻害剤である脂肪酸 CoA を消費するのだからアセチル CoA カルボキシラーゼの活性化因子でもあるという位置づけで研究はスタートした。当時のことゆえシグナル伝達との関連など思いもつかず,酵素の精製とか基質特異性を調べるとか,もっぱら酵素学的な仕事が中心だった。それでもやっとの思いでホスファチジン酸合成が2つの違う酵素で触媒される2段階反応だということをはっきりさせることが出来た。沼先生の頭からは組織リポプロティン説がなかなか抜けなくて,酵素精製にはゾーナルローターを使いましょうとかいろいろ細かい指示があった。でもゾーナルでこそなかったが2つの酵素は超遠心でまるで血清リポプロティンのように見事に分離したので沼先生はたいそう御満悦であった。結局,助教授にまでして頂いて6年間,医化学にお世話になることになった。最初の1年近くは紅衛兵ならぬ全共闘の活躍で研究のほうはストップさせられたものの,正味5年余りホスファチジン酸合成をはじめいくつかのアシルトランスフェラーゼの仕事をすることが出来た。今思っても医化学教室には早石,沼両先生のもと,“研究第一”の雰囲気があふれ本当に研究をするところであった。群馬大学に移ってからもリン脂質合成の仕事を続けたが,ホスファチジン酸合成の仕事のほうはしばらく中断したままになっていた。ところが10数年たった1987年,バンダービルト大のエクストンが受容体刺激でホスホリパーゼ D が活性化されて,ホスファチジルコリンからホスファチジン酸が生成することを報告し,ホスファチジン酸がどうもシグナル伝達に関係するらしいということになった。こうはしておれんという気持ちになって,合成ではなく分解によるというところが前とはちと違うがホスファチジン酸の仕事を再開することになった。もう定年が間近いので時間切れが迫ってはいるが,我が研究室はホスホリパーゼ D に明け暮れる毎日である。そういうわけで私の研究生活はホスファチジン酸に始まりホスファチジン酸に終わることになった。神経科学のほうへ移られてからの沼先生はリン脂質の問題にはあまり興味を示されなかったが,“またホスファチジン酸をやっています”と申し上げればあるいは少しは興味を示して頂けたかもしれない。早く亡くなられたのが残念である。
(1968.9〜1974.6 群馬大学医学部 生化学 教授) 


科 学 者 と 個 性

武 藤   誠   
 私は,週に2〜3回水泳をする様習慣づけている。プールさえ近くにあれば,泳ぐには相手も要らないし,コートの予約も不要で,思いついた時や,自分の都合のつく時間に出来て手軽であり,又,全身がバランスよくほぐれて,水泳後の心地良さが有難い。米国で独立して研究室を持った頃,グラント申請等に伴うストレスで十二指腸潰瘍になり,主治医の勧めで水泳を始めたが,もう15年以上続けている。デューク大学にいた頃,我流の泳ぎを改善しようと,体育学部でオリンピックチームの一員だったコーチ(女性)に,2週間程指導を受けたが,大変良い人生勉強にもなった。彼女が云うには,人それぞれの歩き方に個性がある様に,泳ぎ方にも個性があって当然で,それを無理に壊して他人の型にはめる必要はないし,それではうまく行かない。自分の泳ぎに合った形で効率の良い泳ぎを見い出せば良いのだと。これは,科学研究のやり方にも当てはまると最近思う。数年前に,ピエール・シャンボン博士を招待したとき,空港で出迎えたあと車中で2時間程雑談をした際に,私が京大の医化学教室に在籍したことがあることを告げると,早石先生の研究室のポリ ADP リボースの研究等の話のあとに,「ところで,沼教授の部屋にあった古いガス・ストーブはどうした?」と聞くので,「分かりません。きっと処分したのでしょう。」と答えると,「それは惜しい。博物館へ持っていって陳列すべきだった。」と笑っておられた。彼も「科学のやり方には個性があって然るべきで,沼教授のは典型的なドイツ式だ。私は朝8時から夕8時まで仕事に集中するが,そのあとはレストランで美味しいワインと料理を食べてリラックスし,時には研究室を離れてリフレッシュしなければ,自分を見失ってしまう。」と云われたのは面白かった。
 私は,人生の出会いを論ずる程年を経てはいない積もりだが,若い頃には見えなかったことが見えて来ることもあり,外国へ出て初めて見える日本もある。又,日常性に埋もれてその有難みの分からない人間関係が,あとになって分かることもある。私は医学部の学生の時に沼先生の研究室に出入りし,早石研との合同セミナーにも参加させて頂いた。その後,大学院をウイルス研に進み,学位取得後留学,14年間を米国の大学や研究所ですごした。帰国後企業の研究所に4年間,アカデミアに戻って3年を経ている。この間,ほんの数年間,しかも医学部の学生の時に,講義の合間に出入りしていたに過ぎない医化学教室で,自分が意識せずに得ていたものが,その後の自分の研究生活に大きな影響を与えたのだということを,最近漸く認識しつつある。当時は,ドイツから帰国されて間もなかった沼先生,そのドイツ式サイエンスのやり方に一種の抵抗を感じつつも,その厳しさを経て初めて身に着けることのできる,科学者としての貴重な資質があることを,若い人々に教える立場になった今,漸く認識している私は相当感性が鈍いのかも知れない。今は亡き沼先生がお赦し下さることを願うのみである。
(1969.4〜1973.8 東京大学大学院薬学系研究科 遺伝学 教授) 


大 学 紛 争 の 余 波

山 内   卓   
 私が大学院の学生のとき,蛋白質・核酸・酵素か何かの雑誌で,早石研で研究員を募集していることを知り,1年くらい勉強させてもらいたいと思い,早石 修先生にお願い行き,先生と初めてお話しする機会が得られ,医化学教室でお世話になることが決まりました。しかし,すぐに大学紛争が激しくなり,医化学教室も封鎖され研究が停止し,私は行くことができなくなりました。1年後紛争が解決し,早石先生から,研究を再開したことを知らされ,1970年2月より医化学教室にお世話になることができました。従って,私が医化学教室にお世話になったときは,教室員の人達が最も少ない時期でしたが,すぐに,多くの人達が医化学教室に来られました。私は,アメリカ留学から帰国されたばかりの山本尚三先生と仕事をさせてもらうことになり,大学院学生の平田扶桑夫君と一緒にリジンモノオキシゲナーゼの仕事を始めました。薬学での仕事と全く異なるテーマでしたが,山本先生に,色々と丁寧にわかりやすく教えていただき,仕事を進めることができました。医化学教室では,ホワイトの生化学の教科書と毎日のランチセミナーに驚かされました。私は,教科書や文献を読んだり,講演を聞いたりして勉強するより,実験の方が好きでしたが,幅広く勉強することが本当に大切であることが教えられました。
 その後,戦後,医科大学として初めて,旭川医科大学が新設されることになり,アメリカ留学中の藤澤 仁先生が教授に決まり,私が一緒に行かせていただくことになりました。全国の医者不足を解消するために,政府の方針で,1県に1医学部または医科大学を設置することが決定され,その第1回として旭川医大が選ばれました。一方,当時大学紛争を2度と起こさないために,文部省が大学の教育などに指導力を発揮することが必要であるとして,いわゆる筑波大学法案がつくられました。この法律により,大学が国家権力に支配されることをおそれて猛反対が起こりましたが,政府は,この法案を早く成立させるための取り引きに,新設医科大学の設置を決める法案と合わせて国会に提出しました。そのため,審議が大幅に長引き,4月開学予定の大学の創設が遅れました。藤澤先生は帰国出来ない状況になり,旭川医大の創設準備室からの連絡は,すべて私の方にされてきましたが,藤澤先生に連絡とる余裕がないことが多く,研究室の設計図はじめ重要な事項を,野崎光洋先生に相談しながら対処しました。野崎先生は,藤澤先生が留学される前に一緒に仕事をされておられたので,藤澤君には文句は言わせないからと,何時も励まして下さいました。結局,法案が国会を通過する前に藤澤先生が帰国されましたが,二人で旭川医大に赴任したのが,北海道では冬の真近な1973年10月の初旬であり,11月に第1期生が入学するという異例の事態になりました。
 私は医化学教室に在籍させていただいたことにより,医化学教室の先生方はじめ多くの先生方と,ずっと親しくお付き合いさせていただくことができ,私の研究生活においてかけがえのないものとなっていますことに,大変感謝しています。現在私は薬学部に戻り,研究・教育に従事しています。最近では国立大学の民営化あるいは独立法人化が論議され,大学の在り方が時の政府の方針で大きな影響を受けますが,医化学教室で学んだ基礎研究が重要であるということを基本に研究を進めています。(1970.2〜1973.9 徳島大学薬学部 生理衛生薬学 教授) 


医化学教室に導かれた脂肪酸代謝研究

田 辺   忠   
 私は,阪大蛋白研有機化学部門で大学院を修了し,ウィルス研の井上,杉野両先生の紹介で,丁度本庶 佑,中西重忠両先生が博士課程を終えられた1971年4月から医化学教室第一講座に副手として受け入れていただきました。最初の約1年間は,早石先生のご指導の下で,静田 裕先生にスレオニン脱アミノ酵素を材料に,みっちり酵素化学の手ほどきしていただきました。幸いこの間に JBC に論文が出せるデータが出来,静田先生にはほぼ全文の添削と,早石先生には discussion の一部を追加していただき一文を残せたことで,有機科学者としては,真に幸運な変身を遂げることが出来ました。現在,勤め先の関係もあり,少し複雑な気がしないこともないのですが,私が有機化学者であったことを知っている若い研究者は殆どいません。その後,本庶先生が留学されたため,数カ月 ADP リボシル化機構解明のお手伝いをしたが,直ぐに第二講座に配置替えになり沼先生のもとで,助手として中西先生の研究を引継ぎ,脂肪酸生合成の律速酵素であるアセチル CoA カルボキシラーゼ (ACC) の研究を行うことになりました。4年間ラット肝臓 ACC と格闘し,4種類のサブユニットからなる大腸菌 ACC とは全く異なり,ラットでは多機能の単一のサブユニットで構成され,臨界ミセル濃度の千分の一(nM レベル)の長鎖脂肪酸 CoA で可逆的に阻害されることを,和田健司,荻原英雄,仁川純一君らと明らかにすることが出来ました。私が,ACC(当て字「汗散孤影駆留墓飢死競走」は気難しい酵素の象徴)と格闘していた時,隣で小野薬品(現 JT)の宮本さんが,アスピリンなどの非ステロイド性抗炎症薬の標的酵素であるシクロオキシゲナーゼ (COX) と日夜格闘しておられ,純化に初めて成功された。この時 COX の印象をあまり強くインプリントされたためか,現在の職場に移ってから山本尚三先生のお弟子さん(横山知永子室長)と COX のクローニングに初めて成功したことに,因縁を感ずる次第です。これが縁で,循環器疾患との関連が示されているプロスタグランジンやトロンボキサンの生合成機構の研究を,私が在職当時学生で現在は世界の第一人者として活躍されている成宮 周,清水孝雄,伊藤誠二教授らに助けてもらって続けています。一方,ACC のクローニングに高井俊行室員(現東北大教授)と成功して以来,Elsevier から出版され沼先生が編者の数少ない著書「脂肪酸生合成の制御」の ACC に関する一章を添削していただいていた時に,「今後 ACC はまかせる」と言っていただきました。しかし,このご期待に,この10年間全く応えられていないので,いつか機会があれば ACC の研究に立ち返り,新しい切り口からもう一度挑戦しながら,医化学の伝統の中で培われた脂肪酸生合成に関する研究の伝統を,若い研究者に伝えたいと考えています。おわりに,医化学以降の私の20年間の仕事を「脂肪酸代謝機構の解明」と一言で言い表せる研究にまとめることが出来ていることは,医化学の100年の永きにわたり培われてきた伝統を引き継いだ諸先輩,同僚,後輩による有形無形の指導と援助の賜であることに,改めて心から感謝している次第です。(1972.4〜1979.3 国立循環器病センター研究所 薬理部 薬理部長)

 


1972年4月から1973年8月まで

寺 岡 弘 文   
 医化学教室開設100周年と聞いて,真に素晴らしいお目出たいことかと慶賀の気持ちでいっぱいですが,「随想」の寄稿ということで何を書こうか悩んでおります。以下に思いつくままに書きましたが,主観的で内容が必ずしも正確でないことと,敬称の省略等の御無礼は平にお許し下さい。
 もう今では四半世紀以上も前のことではあるが,タイトルに示した1年半近くを,沼研にて over doctor として(正確には,沼先生からの援助付きの医学部無給副手として)お世話になった。京大大学院理学研究科(化学専攻・香月研)を出たが就職口が見つからず,本来は,私と同級であった畠中 寛(現,阪大蛋白研・教授)が先に決まっていた話であったが,彼が三菱生命研に就職が決まったため,そのお鉢が回ってきた。医化学初日の4月1日は,春には珍しく京都に雪が降り積もり前途多難を感じさせた。その朝最初に出会った好人物が,その後の私の進路にも影響を与えた博士課程1年入学の保坂公平(現,群馬大教授)であった。早速,3研でアセチルー CoA カルボキシラーゼ誘導機構の研究を開始したが,沼研は教室員の大幅な入れ替わりの時期にもあたり,当初は閑古鳥が鳴いていた。遊び仲間としては,保坂以外に,助手として早石研から移ってきた田辺 忠(現,循環器病センター部長)や,助手としてアメリカ帰りの上領達之(現,広島大教授),工学部福井研博士課程院生の三品昌美(現,東大教授)も加わり,沼研も次第に賑やかになっていった。沼先生による毎日2回,時には3回にも及ぶ巡回の目を盗んで,早朝テニスをしたり,近くの雀荘に出掛けたり,用務員室にお邪魔したり,蒸留水製造の over flow を利用したお風呂に入ったりと,毎日が結構充実していた。しかし,酒を飲み過ぎ,ホンダのミニバイクで帰ったものの学位論文原稿の入った鞄を落とし,翌朝の家庭教師先に届いた連絡から事の重大さに気付いたこともあった。
 当時の沼先生には楽友会館で昼飯を何度か御馳走になるなどで,ありがたい事とは思っても,就職して早めに出ていくことには否定的な傾向が感じられた。そのため,富山大和漢研の塚田欣司教授(1975年から東京医歯大教授)が助手を探されているとの情報が入るや,即座に富山に乗り込んで自分を売り込んだ。沼先生も渋々承諾されて採用が決まったが,この時,塚田研出身の保坂と,内地留学的に沼研に滞在していた塚田研修士院生であった中谷紀子(現,貫和敏博・東北大教授夫人)には大層お世話になった。これが,塚田先生との現在に至る長いお付き合いの始まりであった。また,22才で重篤に失恋したこともあって大学院時代は逼塞していたが,医化学時代には恋愛もどきも体験した。しかし,京都を去る直前の8月下旬,学生時代に3年余お世話になった下宿の未亡人にお別れの挨拶に伺ったことが縁で現在の妻と出会えたことが,この期間に唯一放ったクリーンヒットだったのかもしれない。
 最後になりましたが,研究の機会を与えて下さいました今は亡き沼 正作先生の御冥福をお祈りすると共に,早石 修先生をはじめ,お世話になりました医化学教室の方々にこの場を借りて厚く御礼申し上げます。
(1972.4〜1973.8 東京医科歯科大学難治疾患研究所 病態生化学 教授) 


「紅,白,青,黄」−いろいろな思いで −

保 坂 公 平   
 医化学教室で毎朝私を出迎えてくれたのは,玄関の前の防火用水のわきにあった夾竹桃でした。前日の実験の疲れが残ったままぼんやりして,「昨日はだめだったなあ。今日こそいい結果をださなくては。このままではいかん。そろそろ目を覚さなくては。」と考えながら,教室に入ろうとするといつも目に入ってきた木です。真夏でも緑の葉をしていてしかも刺激的な紅色の花をつけていました。入り口の光景は四半世紀以上も経た今でも鮮明に思いだされます。夾竹桃は暖かい地方に特有のものなので,北国生まれの私は京都にくるまで夾竹桃を見たことがありませんでした。あの木はもうないのでしょうか。
 私が富山大学薬学部の修士課程を終えて,沼先生の研究室で大学院学生としてスタートしたのは1972年の4月でした。この年の2月に札幌で冬季オリンピックが開催され,70メートル級ジャンプで3本の日の丸が揚がり日本中が湧いた年でした。3月31日に富山から京都に来て深泥池の知り合いの家に泊まり,翌朝起きてみると外は真っ白でした。雪が10センチ近く積もっていたのでした。この時期に京都で雪が積もることもあるのだと感心しながら,これから研究する所となる医化学教室へと向かいました。到着すると,まだ時間が早かったせいか教室には殆ど人がいなかったので3階の図書室で待っていると,理学部の香月研究室出身の寺岡弘文氏(現,東京医科歯科大)が現われ,同じく沼研究室に入るとのことで互いに自己紹介をしました。以後,氏とは長いつきあいが続いております。
 玄関を入って1階の廊下を左に曲がると,コールドルームがありました。入り口には国防色の防寒着がいくつか備えてあり,袖をとうして中に入るといつも誰かがいました。震えながらもカラムの準備をしながら隣の人とお互いの酵素精製の進み具合を話しあうのは結構楽しい一時でした。当時フラクションコレクターにセットしてあるカラムの色は殆ど白に近いものばかりでしたが,ある時,今まで見たこともないようなきれいな青い色をしたカラムが目にとまりました。それを扱っていた第一講座の岡 純君(現,国立栄養研)に聞いたところ,ちょうど米国留学を終えられた上田国寛先生(現,京都大)が導入されたもので,その名も Blue Sepharose という製品でした。岡君にゲル体積で 1 ml 程分けてもらい,私が精製しようとしていた Acyl-CoA synthetase に応用してみると回収率も良く,しかも精製倍率も飛躍的に上昇する凄いゲルでした。おかげでそれから1箇月ほどでその酵素を均一化することができました。その後,新しい酵素の精製の時は先ず Blue Sepharose を使用することにしております。
 教室の側に何本かの大きな銀杏の木がありました。秋になって,黄色の葉がたくさん落ちてくる頃,よく田辺 忠氏(現,大阪循環器病センター)が大きな木の途中まで登り,竹竿で銀杏の実をたたき落としました。そして下にいるものは,落ちた実を大川さんと一緒に集めたものでした。大川さんは,悪臭のする外側の皮を取り除いた実を年末頃にビニール袋に詰めて,教室員一人一人に配ってくれました。それらを妻帯者は家にもって帰り正月の料理などに使ったのでしょうが,独身者は下宿に持って帰っても仕方がないので教室においておき,夜遅くストーブの上で焼いて食べたものです。焼けた殻を破ると中から鴬色の実が現われて,それを食べると少しほろ苦く,一人身の辛さも同時に感じました。
 辛かった事,楽しかった事のいろいろな思い出がつまっていた古い医化学の建物はもうないとのことですが,私の心の中にはいつまでも残っております。
(1972.4〜1978.11 群馬大学医学部 保健学科 医療基礎学 教授) 


医 化 学 と 科 学 と 僕

上 領 達 之   
 僕は農学部を卒業した。しかし大学1年生の秋に今堀和友から分子生物学の洗礼を受けてしまったので,応用科学には興味を惹かれず,大学院では野村真康が一時期を過ごした研究室を選んだ。昭和40年のことである。そこには理学部からの学生もいて,ワトソン研の大学院生カペッキのナンセンス・サプレッサーの論文などに一緒になって興奮していたから,同じ問題に取り組む限り出身学部の違いなど全く関係ないと信じていた。ところが医学部に身を置いてみると,農と医の間には互いに異文化とも言える差異のあることを感じた。記憶に残る例を2つ挙げる。1つは変異株。医化学に来るまで,変異株とは人がない知恵を絞って選び出す,或いは創り出すものだと信じていた。例えば既知の代謝経路とその調節機構を考え抜いて,グルタミン酸を少しでも多く生産する菌株を手に入れるために。ところが医学分野では,変異株が自分から研究者のもとへやって来て人知の及ばぬ機構を教えてくれる。リソソームの水解酵素の1つが不足する I-cell 病では,一旦は細胞外へ分泌した酵素を捕まえてリソソームに連れ戻す,そのためのレセプターが欠損していた。細胞の中に直接リソソームへ送り込む経路がある以上,こんな道筋を予想する者はいない。この驚きを最初のランチセミナーで披露した。もう1つは個人の肥満と人類の飢餓。医化学で与えられたテーマは脂肪酸代謝の調節だった。要するに美食過食に起因する肥満の治療を念頭に置いた研究である。あの頃すでに50億を数えた人類にとって,肥満と飢餓と一体どちらの解決が優先されるべきか? 美食できる者に奉仕する医学と飢えに慄く者の側に立つ農学という対置が,富の配分という要素を越えて意識され始めた。一時の喝采を博した心臓移植も,貧者には寿命までも金次第だという悪夢に等しい。外国に出た俄か愛国者にも似たそんな思いに駆られて,世界規模での食糧事情を枕に,窒素固定遺伝子群を土壌細菌に導入する試みを紹介した。古い医化学教室のあのセミナー室で穀物の作付け面積や窒素肥料投入の推移を論じたのは,たぶん僕が最初で最後だろう。
 昭和55年,広島に移った。新構想学部の先駆をなす総合科学部は,和友の次兄,今堀誠二を中心にして創られた。因縁を感じないわけではない。ここでは農と医はおろか文と理が一体となって,学「科」という隔てのない一学部を構成している。ヒロシマの,しかもこのような学部にいると,科学が人間に及ぼす力を考える。科学を科学者集団の外側から眺めることも学ぶ。フックやニュートンの時代,science は知を愛する全ての人の共有物であった。それが19世紀に物理だ,化学だ,生物学だといった「科」学に寸断され,その1つだけを偏愛する自閉症的「科」学者が生まれた。だからアラモゴードの実験場に湧き上がった原子雲を見上げて,成功を喜び合った物理学者がいたことに不思議はない。むしろリトルボーイがヒロシマ市民の頭上で炸裂したとき,生化学者のひとりが「自分をその共犯者とみなし,科学全体が進む方向に対して嘔吐を催すほどの恐れを感じた」ことの方が驚きに値する。しかしその声が科学者の共感を呼ぶことはなかった。研究の遂行に対する倫理的価値観の干渉を嫌う彼らの属性の故に。声の主が,あの「二重らせん」の中で DNA の相補的塩基対という着想の最も近くに居りながらそれを見逃した道化として登場する,「ノーベル賞を獲り損ねて拗ねてしまった」シャルガフであったが故に。
 核や情報や生命の技術が,科学の主人然と振る舞い出した今日,彼の不吉な洞察が現実となってはいないか? でも,もう口をつぐもう。僕には拗ねる資格もないのだから。
(1973.1〜1980.9 広島大学総合科学部 情報行動 教授) 


一  期  一  会

伊 藤 誠 二   
 昭和51年4月から昭和56年5月まで大学院生として医化学第一講座に在籍し,学部学生の頃からあわせると8年余り医化学にお世話になりました。この間14研→6研→13研→5研→4研とすべての研究室をまわりました。大学院の最初の仕事は静田 裕先生の下で仔牛胸腺からポリ (ADP) リボース合成酵素の精製を行いました。1年の夏に静田先生について4週間,アメリカを旅行し,NIH の Ira Pastan の研究室で実験をさせてもらったことで,大学院修了後は Pastan の研究室に留学することを決めました。静田先生は親分肌で,仔牛胸腺が京都で手に入らないとわかると東亜国内航空で釧路まで日帰りで行かれ,夜にアイスボックス一杯の胸腺を持って帰ってこられました。お陰で,その仔牛胸腺を用いて,毎日,酵素精製に明け暮れることができました。3年の夏休みに J.B.C. の論文を書いている最中に中西重忠先生のグループと白浜に海水浴にいき教室に戻って静田先生に論文作成中は気を抜くなとしかられたその記憶がいまだにしみついています。コールドルームで酵素精製中,山本尚三先生のグループがシクロオキシゲナーゼの精製に使っておられた高価な isoelectrofocusing のカラム(当時約40万円)を白衣のすそにひっかけ倒し壊したときにはクビと覚悟をしていましたが,山本先生が
「将来いい仕事をして返してくれたらいいよ。」とおっしゃって下さったことは今でも非常にありがたく思っております。落語の「馬屋の火事」ではいつもこのことを思い出しながら,若い人にはこのような態度で接しています。静田先生が高知医大に栄転されましたので,高井克治先生の下で Pseudomonas のトリプトファン側鎖酸化酵素のペプチドでの反応様式の解析を行いました。その当時珍しかった HPLC を駆使してペプチドの反応産物の分離精製を行い,threo 型と erythro 型 β-ヒドロキシトリプトファンを世界ではじめて酵素を用いて合成し,大阪市大理学部の徳山 孝先生のご指導により,NMR,MS で同定できた喜びは忘れられません。私の留学前の高井グループは,井上紳太郎(鐘紡)さん,Zavala(フランス)さん,Mueller(ドイツ)さん,Patnaik(インド)さんがおられて,公用語が英語で国際研と自称していましたので,留学しても日本にいるのと全く変わらず研究生活を楽しむことが出来ました。PG の学会でフローレンスに行ったとき,別の学会で来ていた Zavala さんと偶然街角で出会ったときは,10年ぶりで会ったにもかかわらず,すぐ打ち解け,楽しいひとときを過ごすことが出来ました。早石先生の「医者は一人ずつ患者を治すが,基礎医学の研究を進めて病気の原因を突き止めると一度に100万人の人を治せることがあるのだよ。」のお言葉に従い,大学卒業時に基礎医学を選択したのですが,基礎医学の興隆のよき時代,よきスタッフ,先輩,学友に恵まれ,医化学に在籍できた誇りと感謝の念で一杯です。
 21世紀に医化学がさらに大きな飛躍されることを祈念いたします。
(1973.4〜1981.5 関西医科大学 医化学 教授) 


医 化 学 教 室 の 思 い 出

由 井 芳 樹   
 昭和47年に医学部進学課程から医学部に進学し,生化学の講義を早石先生(現,京大名誉教授)から受けました。内容は酵素のアロステリック制御機構のお話でありました。非常に面白く感銘を受け自分でも少し,勉強し不明な点を早石先生のお部屋に失礼かもしれないと思いながら質問に行きました。後で判ったことでしたが,その日は早石先生のちょうど文化勲章受賞の発表の日であり,新聞記者が来ていました。早石先生は,忙しい中丁寧にこちらの質問に黒板で説明してくださったことを覚えています。その後,当時アロステリック酵素の研究をされていた静田先生(現,高知医科大学教授)を紹介していただきました。それから医学部の基礎医学の期間酵素誘導の研究をさせていただき,生化学会での発表と論文にまとめさせていただきました。卒業後第三内科に進み,循環器の冠動脈疾患の臨床と基礎研究に従事し,現在に至っています。学生時代に酵素誘導の仕事をさせていただいたことと,又,当時の早石先生の研究室では酵素蛋白質の精製が盛んにおこなわれていましたのが,後年非常に役に立ちました。また,当時国内の他大学では研究設備等は十分整備されておらず,早石先生の国際的な知名度の高さもあり,全国から優れた人材が集まって来ており,日々研究に切磋琢磨されていました。学生時代にこの空気を吸わせていただいたことも貴重な経験となりました。今から7,8年前,血管内皮細胞で作られる EDRF が NO であることが明らかになり,次ぎに NO 合成酵素(NOS) に注目が集まり始めたころに,マクロファージから NOS を精製し酵素学的な性質を調べた結果,構成型酵素 (Constitutive NOS) 以外に別の制御機構がある誘導型酵素 (Inducible NOS) が存在するのに気付き,この NO 合成酵素は2つに分類されることを世界に先駆けて発表することができました。これは,偏に学生時代に酵素を勉強させていただいた結果と考えて,感謝しております。学生に自由に研究させていただいた当時の医化学教室の雰囲気,早石先生の御器量に,本文を書きながらあらためて感服している次第です。医化学教室が100周年を迎えられたとのことですが,生化学,分子生物学いずれも,物質を一つ一つ明らかにして概念を構築していく作業は時代が変わっても不変の手段ですので,今後も益々医化学(関連の)教室は発展されると思います。最近は,臨床と基礎の垣根がなくなり,分子細胞生物学というような言葉で共通の土俵の上にあるように思えますので,そういう意味からも,医化学(関連)の教室が益々発展されて,サイエンスを引っ張って行かれることを期待しております。
(京都大学大学院医学研究科 循環病態学 助手) 


小 児 外 科 医 へ の 道

吉 田 龍太郎   
 昭和48年春,私が岐阜大学医学部を卒業してもう26年になろうとしている。卒業を前に今後の進路で考慮したことといえば,勉強が得意ではなかったので外科系に行くことと,子供が好きであることと,癌を治せる医者でありたいことの3点であった。京都に生まれ育ったのと,京大小児科に母の知り合いが居られた関係などで京大小児科での研修を考えた。昭和47年の秋,奥田六郎教授にお会いし研修したい旨お伝えしたところ,「生化学が今後大事になるので,生化学を勉強してからいらっしゃい。」とのこと。え!?……。大学院の応募締め切り日が近かったことだけは覚えている。
 大学院への応募書類で,学問では自分をアピールすることがなかったので,学生時代軟式テニスをしており,西日本医学生体育大会で2回優勝したことを書いた。また,面接の時には,「藤原元和先生を知っています。」と言ってしまった。その時,早石先生が,「それは,サイエンスでですか? テニスでですか?」と聞かれ,「はい,テニスでです。」と答えた。早石修教授が偉い先生とは知らず,この質問でリラックスしてしまい,その後,藤原元始薬理学教授の質問にも半分くらい答えられたような気がする。大学院入学後,藤原元和先生には,サイエンスとテニスの両方で,弟のように可愛がってもらったが,何のお返しもできていない。
 医化学では,野崎光洋助教授のグループ(4研)に入れていただいた。恐らく藤原元和先生が居られたからだと思う。初日,野崎先生が部屋を案内してくださる時,駒込ピペットを見て,「これは何ですか?」と聞いてしまった。真に不勉強で生化学に素人であることを暴露してしまい,野崎先生の動きが一瞬止まったのを覚えている。そして,実験を始めるにあたり,野崎先生から英文の論文を手渡され,読んでいるとあっという間に時間が経ち日が暮れてきた。午後7時半になっても,8時になっても誰も帰られない。1日2日は,思い切って,「お先に失礼します。」と帰宅したが,あとは……。野崎先生は,「研究者は,自分で一つ一つ技術を開発し,自分で手を動かして新しいことを見つけ,自分で論文を書くべきである。」と恐らく思ってられたのだろうが,私の場合,余りにも素人だったので,いろいろ助けていただいた。野崎先生は,硬式テニスの名手で,スポーツに非常に理解があり,大学院の前半を本当にのびのびと過ごさせていただいた。
 早石研では,大学院後半(私の場合,4研から6研へ移籍)の仕事で博士に値するかどうかが判断されるようで,私は,結局大した仕事ができず,昭和52年の春,小児科へ移ることにした。しかし,何とも不思議なことに,後始末の実験をしていて LPS (細菌内毒素)による indoleamine 2,3-dioxygenase の誘導を見つけた。小児外科医になるか,基礎研究を続けるか,大いに迷ったが,その後5年あまりを医化学の助手として過ごすことになった。ソフトボール大会,ボーリング大会や実習室での深夜の卓球など,非常によく遊んだが,即席ラーメンを食べて深夜まで実験もした医化学での非常に有意義な11年間であった。
 医学部を卒業してから26年,結局一瞬たりとも小児外科医としては働いていない。
(1973.4〜1984.6 大阪医科大学 第二生理学 助教授) 


京都大学医化学教室在籍の重み

貫 和 敏 博   
 医化学教室開設100周年お喜び申し上げます。
1971より東京大学栄養学教室で学部学生として実験させていただいた3年,京都大学医化学教室で大学院生として御指導いただいた2年,早石教授に御指導いただきましたこの5年間は私の研究者としての生き方に根源的な教育を受けた期間です。その後臨床に転じ,今25年を経て振り返るとき,その在籍期間の重みをしみじみ感じるものですが,そこで感化されたものは何であったのか2,3記したいと思います。
 まず最も大きな点は,研究環境としての人材の集合体であります。研究環境は必ずしも機器の充実ではない。場としての人的集合体の重さという点では,日本において稀有な環境に身を置かせていただいたという思いがあります。事に他学部研究者における生命科学の捉え方,また全国他大学からの研究者との接触を通し,生命科学の多くの理念の理解を深めました。さらにはそれを構成していた人材の質の高さに関しては申すまでもありません。単に在籍時のみならず,医化学を離れた後の個々の研究者の研究推進力と,時間と共に明らかになる成果,発展性も,日々刮目しつつ認識を新たにするところです。こうした人材が切磋琢磨する場であることを持続するということは,その指導者の卓抜した見識に基礎を置くものと考えます。
 第二にシステムとしての効率的な情報収集が挙げられます。ことに学生時代より参加させていただいた lunch seminor に関しては様々な思い出があります。このシステムは現在の東北大学加齢医学研究所赴任後にすぐ実行しました。初期研修より戻った若い医局員が,臨床に追われる毎日,年々その意義を理解してくれ,このシステムを通して,臨床の科でありながら major basic journal の contents をサーべーし,自分の紹介論文をより面白くしようという姿勢を見るとき,無意識のうちに理解していた lunch seminor の不思議な力が,かくも強力なものかと再認識する次第です。
 医化学で身につけた素養の重さを真に感得したのは,臨床に転じ,遅れて36歳で留学し,初めて molecular biology に接した時でした。臨床で専攻した呼吸器はおよそ molecular な理解からは遠く離れた生理学の世界でありましたが,この頃を境に物質論的理解が浸透し始めました。医化学を離れて8年,久しぶりに full research の時間を持った4年間,思う存分 molecular biology を吸収しえたのは,学生時代から5年間の医化学の環境で身につけた素養をもって,初めて可能であったと思われます。
 呼吸器臨床の場で,難治の肺癌,肺線維症をプロジェクトとして戦略を考える毎日です。折しも21世紀に向かって,一方で genome project は終了するものの,protein biology はより複雑さを増し,新知見として理念の転換をせまられる報告が続々となされます。こうした中で,若い時期わずかな期間接した医化学のエネルギーをもとに,残された10年の現役を面白く務めたいと考えております。同窓の先生方のさらなる御指導,御鞭撻をお願いする次第です。
(1974.1〜1976.3 東北大学加齢医学研究所 呼吸器腫瘍 教授) 


Cary14,オートクレーブ,ワールブルグ検圧計

宇 城 啓 至   
 機器をめぐる記憶が鮮明に残っています。
 大学院に入ってはじめての実験で,Cary14 型分光光度計を使いました。石村先生から,Cary14 が高性能であり,使用に際しては,まず試料室の蓋を半ば閉じて外部の光を遮ってから,最後にフォトマルチプライアーのスイッチのある一辺を閉じるようにと,うかがいました。Cary14 の大きさに圧倒されていましたので,緊張してそっと蓋をしておりました。大学院を出てからは,従事する研究分野のため簡便な分光光度計しか使っていませんが,それでも,ときどきあの重い蓋のことを思い出します。
 細菌培養準備室のオートクレーブを何度か使いました。そのときは,高井先生が単離された細菌を大量培養するため,牛肉エキスの培地をエルレンマイヤーフラスコに分注して滅菌していました。2台のオートクレーブを使いましたが,ガスの火力の違いからか,仕上がりの時間がそろわず,また,滅菌したてのフラスコを恐る恐る高圧釜から運び出したり,タイミングを見計らって排気弁の開閉をしていますと,その場を離れられず,つきっきりで作業をしているような状態となりました。深夜になり,用意した培地を早く滅菌してしまわなければと,気がせきながら作業をしていました。ふと人の気配がして部屋の入り口をふりかえりますと,早石先生が培養準備室にみえたところでした。電灯が点っていたため,ご帰宅の途中にお立寄りなされたのでしょうか,もう誰も残っておられないだろうと思って作業をしていましたので,吃驚して緊張すると同時に,何か間違った操作をしてはいなかったかと,心配いたしました。
 実習室の方にしまいこんでいたワールブルグ検圧計を研究室に運んだことがありました。中庭の渡り廊下は簡単に移動できましたが,階段では,検圧計が重くて2,3人では持ちあがりそうにありませんでした。そこで,高井先生はじめ14研の皆様,他の研究室の方々にもお手伝いいただき,検圧計と壁にはさまれないように注意しながら,なんとか運びあげることができました。驚いたことに,この検圧計は,ほとんど手をいれることなく作動いたしました。Cary14 と同じように,鉄を充分に使った重い機械は,頑丈で信頼がおけるということを実感いたしました。
 その頃,帰国直後の静田先生から,英作文の手引きとして,W. Strunk 著 The Elements of Style という小冊子をご紹介いただきました。この本は,学位論文を作成するとき随分と参照し,現在も手許に置いて,身近の人に薦めています。
 印象深い出来事を記させていただきました。医化学教室在籍中は,研究についてはもちろんですが,おりにふれ様々なお話をうかがうことができ,まさに蒙がひらかれる思いがいたしました。わたくしの方は,そそっかしくて,よく失策をしましたが,ご宥恕下さいました皆様に感謝いたしております。(1974.4〜1979.8 三重大学医学部 解剖学第一 助教授) 


“一  粒  の  麦”

福 島 雅 典   
 人物との出会いが人をつくり,未来を拓く。
 医化学,早石先生との出会いは運命的なものであった。学生時代にはじめて早石先生を訪ねた時,私が出身大学に残る気のないことを話すと,先生は笑って“君はアメリカの学生と同じことを言うね”とおっしゃったのを,つい昨日のことのように覚えている。早石先生は私にとって科学と人生の恩師である。医化学の2年間は密度の濃い時間であった。科学の原理とコスモポリタニズムがたたきこまれ,その後の人生を決定づけた。医化学の人々との交流は,一流を目指すことを当然の生き方とした。
 早石先生は折に触れて,科学と人生の指針を短い言葉で話された。その一つ一つが思い出される。いつだったか,大学院の仲間と話していた夜,実験室にふと現れて,“君達は柿の種をとるかおむすびをとるか?”と尋ねられた。“柿の種は芽がでないかもしれないですね”とかわしたものだ。当時,私は上田國寛先生,岡山博人君とポリー ADP リボースをやっていて,隣の部屋では山本尚三先生のグループが PG をやっていた。この時の PG に対する親近感が1982年に PGJ2 をみつけるきっかけになった。種を蒔き,実がなるまで育てることは,大変辛抱のいることである。その後の PGJ2 の展開を見るとき,まさしく科学のなんたるかは柿の種の教えに凝縮されていた。
 実験室での幸福な時間は,いつしか癌との困難な闘いの日々に代わった。医化学を出て7年後の1983年,はじめて Amer. Soc. Clin. Oncol (ASCO) の Annual Meeting に出席して受けた衝撃から,私は日本の薬務行政の改革と臨床科学の基盤づくりという大きな使命に目覚めることになった。以後,1989年に Nature から依頼を受け,“The overdose of drugs in Japan”を寄稿,翌年日本は GCP を施行。1995年の Nature Medicine 創刊号には“The Clinical Trials in Japan”を書き,ついに昨年,ICH-GCP 施行が実現したのであった。長い困難な闘いの中,ふと思い出すのは早石先生の口からつぶやきのように聞かされた心に残る言葉,“一粒の麦死なずば”であった。
 Medical Oncology という,米国でつくられた壮大な臨床科学の使徒として,どうしてもしなければならないことはまだ余りにも多い。わが国の医学は,結局のところ杉田玄白の頃と本質的には変わっていないのではないか。そのような思いから,1993年に取り組んだのが,まだ日本にはよく知られていなかった世界の医師のバイブルと呼ばれるメルクマニュアルの完訳であった。翌年12月に出版したメルクマニュアル日本語版第1版には,早石先生から推薦文をいただいた。奇しくも,今年はメルクマニュアルの100周年に当たり,今まさに Centennial Ed.(17版)の翻訳をスタートしたところである。いずれ“一粒の麦”は何万という麦になり,日本の医学を変えるであろう。(1974.4〜1976.3 愛知県がんセンター 内科 副部長 兼 医長) 


医化学教室寸描:1974〜5年頃

前 田 道 之   
 1974年5月から1年半ほど,私は結核胸部疾患研究所の市川康夫先生が発見したマウスの骨髄性白血病細胞株 M1 を顆粒球・マクロファージに分化させる蛋白性の D 因子(後に LIF:leukemia inhibitory factor として遺伝子がとられた)精製のため,医化学第二講座の沼先生のもとで指導を受けた。
 その頃の医化学教室では,早石研はオキシゲナーゼの研究を中心として,野崎,山本,石村,上田,平田先生が各々グループを率い,昼夜を分かたず熱気に満ちた研究が進行していた。1974年には早石先生が日本学士院会員になられた。この頃医化学教室に人気がなくなるのは忘年会の夜だけで,それを知っていた泥棒がその夜侵入したこともあった。当時の沼先生の興味はアセチル CoA カルボキシラーゼを中軸においた脂質代謝の研究であり,山下,上領,田辺(忠)先生がスタッフとしてがんばっていたが,大教室である早石研の熱気に何となく押され気味であったように私には思えていた。沼先生は論文作成時のデスマッチの厳しさの反面,研究室の歓送迎会なども結構楽しんでおられ,大学院生の中には先生に直接可なり言いたい事を言う者もおり,沼研には程よい自由な雰囲気があった。山下先生の後任として助教授となった中西君が免疫研教授として独立した後,沼先生が分子生物学者に変貌された姿に,残念ながら私は直に接することはなかった。
 その後,1984年に阪大から医化学第一講座に帰ってきた本庶教授の研究室で,再び現在に至るまで折々に,成人 T 細胞白血病の成り立ちを分子生物学的な手法により解析するために,若い人達にいろいろと教えを請うている。
 私が医化学教室に在籍していた時から四半世紀が経過した。旧医化学教室(棟)は今は更地となり,往時を偲ばせるものは裏庭の銀杏の大木の他には何も残されていない。しかし,あの古色蒼然とした建物,廊下,研究室から数々の世界をリードする研究成果と,日本の指導的な生化学者,分子生物学者が数多く育ってきた。医化学教室が常に活気ある研究の場であり続けている理由を考えるに,“何かを知りたい,明らかにしたい”という情熱,知的なハングリーさがそこでは生き続けていて,優れた指導者達がこれを引き継いできたことによるのではないだろうか。勿論,これに競争心,名誉欲とか昇進欲といった世俗的なスパイスが加わることが,研究を推進させ,人間的にもし,面白くもしてきたのも事実であろう。
 この数年わが国では,決して多いとは言えない研究費が,さらに重点研究に配分され,一部の研究室では研究費バブルが生じていると言われている。“家貧しくして孝子出ず”とばかりも言えないが,“ハングリー精神”が研究に限らず物事の大きな推進力になり,物質的な豊かさがともすればこれに反作用として働くのはボクシングばかりではないように私には思えるのだが……。(1974.5〜1975.11 京都大学再生医科学研究所 附属再生実験動物施設 助教授) 


文  藝  春  秋

岡     純   
 この2月,週末の学会が終わった月曜日,出勤すると仕事場の机の上に京大からの封書がのっていた。開封してみると,開設100周年記念の医化学教室在籍時の思い出執筆の御要請だった。
 思い返せば29年前の昭和45年。長く続いた学生ストライキも終わり,ようやく学部の基礎の授業が始まった。そこで早石先生の名講議を拝聴し生化学というものに魅せられ,学部学生で教室への出入りを許していただいた。それからの大学院,その後のオーバードクター,そして30代半ばの昭和57年に現在の国立健康・栄養研究所に就職するまでと十数年に及ぶ時を過ごした教室にはたくさんの思い出がある。日々の仕事は勿論,早石先生の御指導を初めとし,多くの先生方との交流,ランチセミナー,学会前に何度も繰り返した発表練習,大学院1年目の学会では発表もないのに札幌まで行かせていただいたこと。大文字の送り火を観る屋上でのビヤパーティーや教室対抗のソフトボール大会,忘年会,大川さんに連れていっていただいた琵琶湖東の鮎取り等々。私にも青春と呼べる時があったなら,まさしく私の青春の大部分と重なる当時を思い出して尽きることがない。
 なかでも,こんなことを思い出す。オーバードクターも1年経った昭和55年の早春のある日,教授室に来るように,と早石先生からお声がかかった。またお叱りかなと恐る恐る教授室に顔を出すと,ヤー,岡君,ここに出てるよ,と「文藝春秋」5月号のグラビアのゲラ刷りを見せて下さった。それは,早石先生を取材した〈日本の顔〉という巻頭のグラビア記事であった。1頁目に先生のお写真,記事には先生の御経歴やお人柄,お仕事の紹介,それにセミナー室でのプログレスレポートの様子が出ていた。セミナー室の窓側最前の定位置に座られた早石先生に,後ろ姿の私が四苦八苦しながら板書の説明をしているという構図の写真である。早石先生はカメラを意識されてか,柔和なお顔で質問をされている。以前から取材が入っていたのは知っていたし,確か私以外に2,3人の発表風景の撮影もしていたようだったが,まさか私のが使われるとは思ってもいなかった。光栄です,と教授室を退出したが,ふと板書した ADP-リボシル化蛋白質の結合部分の化学構造が間違っていないか気になって化学の得意な緒方規男君に確認を取ったりした。楽しみにしながら発売されたのを早速買って,たあいなくいろいろと見せて回った覚えがある。「文藝春秋」の力は絶大で,当時生理学教室から西ドイツに留学していた大学の1年後輩に,「文藝春秋」で岡さんを見ましたよ,とも言われた。
 大学院に入り,キヌレニン水酸化酵素を可溶化し精製する仕事を始めた。恒温室に籠ってカラムから溶出したフラクション1本1本の活性を酸素電極で各々10分前後かけてアッセイするのに飽きて合間に「文藝春秋」を読んでいたところ,山本尚三先生に見つかり,岡君,こういう時は JBC を読むのだよ,と叱られた。「文藝春秋」愛読者の私には〈日本の顔〉のグラビア写真はなんとも嬉しかった思い出である。
(1975.4〜1982.8 国立健康・栄養研究所 老人健康・栄養部 室長) 


京都大学医化学教室時代の思い出

野 田 洋 一   
 ずいぶん古い話になりますが,私が京都大学医化学教室にお世話になったのは昭和50年4月から昭和53年4月頃までの3年間であったと記憶しています。当時産婦人科の研究室へ戻ってきてさてどうしようかと考えていたとき,せっかく研究室へ帰ってきたのであるから,勉強するには世界でも一流のところでやってみたいと考えたのでありました。幸いなことに当時医化学教室には早石教授がおられたのでそこへ入れていただいてやってみたいと考えました。そこで,当時産婦人科教授であった西村俊雄教授にその様なことをお願い致しますと「君のような出来の悪いのはそんな難しいところへいっても無駄だろう]と仰って取り合って頂けませんでした。しかし最後は夜にお家にまで押し掛けて,てこでも動かないと言う気配を見せていますと,とうとう折れていただきました。西村教授につれられて早石教授のお部屋に伺った日を昨日のことのように覚えております。早石教授に恐る恐るお会い致しますと,大変気軽に声をかけていただき,医化学教室に入れていただく条件はたった2つでありました。1つは,研究テーマは現在医化学教室で行っているものにすること。もう1つは実際にやってみてこの世界が自分に向いていないと思ったらいつ止めても構いませんと言うことでありました。
 この様にして始まった医化学の生活でありましたが,実験を行ってデーターを出して,ものを考えることは何とも楽しいことで,この様な楽しみを受け入れる素地が自分にあったことを自覚してびっくりしたことを覚えています。それまで過ごしていた産婦人科教室と決定的に違ったことは,早石教授のように立派なヒトが,少しも威張っておられないと言うことで,威厳はありましたが,私にもきちんと声を掛けていただき,大変うれしく思ったことを覚えています。真理の前に素直であらねばならない科学者と,容態が急変する患者を抱えていて,厳しく医局員を監督する必要のある臨床家との立場の違いがこの様な教授の存在様式の違いとなっているのであろうと思いました。
 最後に,医化学教室では学位を頂き,早石教授からは,「君も3年間も医化学をやったのだから,婦人科へ帰ったりせずにこの世界で残ってやってみないかね。どこかの教授にはなれるのに。」とのお言葉を頂きました。たぶん医化学教室を離れて行く全ての研究者に与えるおきまりの送別の辞であったのだろうと思いますが,一瞬生化学者として活躍する自分を思い浮かべたこともありました。産婦人科の教室へ帰ってきてから既に20年以上になりますが,この間心がけていることは論文は書けなくて良いから,必ず事実のみをきちんと報告できるよう十分に注意している事であります。早石先生が実験データーを尊重なさった姿を見ていて,自分も産婦人科へ帰ったらその様にしようと考えたわけです。早石教室に在籍したことを今でも密かに誇りにしております。そのうちきっと人口に膾炙するような仕事がだせると今でも毎日密かに準備を進めております。今後の医化学教室の更なるご発展を祈念しつつ,
(1975.4〜1978.4 滋賀医科大学 産科学婦人科学 教授) 


京 都 で の 研 究 生 活

吉 本 谷 博   
 私は広島大学医学部を昭和50(1975)年に卒業し,早石 修教授の医化学教室に大学院生として入学させていただくことになり,当時助教授に昇任された山本尚三先生の第4研究室に配属されました。京都大学医学部から入学した成宮 周さんや岡純さんと同じ学年でした。それまで研究とは全く無縁で,まず驚いたのが昼のセミナーでした。最初は確か酸素添加酵素のメカニズムに関するものだったと記憶しており,その内容は全くといっていいほど理解できず,これからここでやっていけるのだろうかと不安になったのをいまでも覚えています。山本先生のプロスタグランジン研究グループは,丁度宮本 積さんが世界に先駆けてシクロオキシゲナーゼを精製し,研究が発展するところに参加させていただいたのは私にとって大変幸運でした。同じ研究室では,大木史郎さんがシクロオキシゲナーゼの反応機構,荻野誠周さんはプロスタグランジン E 合成酵素,渡部紀久子さんはプロスタグランジン I 合成酵素,私はトロンボキサン合成酵素と順調に研究がすすんでいったと思います。また,隣の席にいた丸山清史さんには,入学当初の1年間研究生活に関していろんなことを親切に教えていただきました。大学院の後半には,清水孝雄さんや近藤規元さんが研究室に加わり,いまでも大変お世話になっています。昭和54(1979)年に大学院を修了し,丁度1月から徳島大学医学部生化学教室の教授として赴任されることになった山本先生に声をかけていただき,徳島大学の助手として移りました。それから平成5(1993)年に金沢大学に赴任するまで,15年間徳島大学で研究をしました。京都大学医学部学生だった福井 清さんは,夏休みに一緒に研究しましたが,現在徳島大学に赴任しており不思議な縁みたいなものを感じます。医化学教室での4年間は論文作成前の苦しさなどもありましたが,楽しいことも多くありました。最初の娘が京都で生まれたこともあり,京都での4年間は大変印象深く覚えています。また,登山が好きだった清水さんや寺尾みねこさんたちと比良山に登ったことや,大川一市さんがよく世話をしてくれた野洲川のあゆとり・河原でのフライの味は忘れられません。医化学教室では S. Ochoa をはじめノーベル賞学者の講演を聞く機会も多く,S.G. Bhat,Clark M. Edson,Frederick I. Tsuji,C.Y. Lai,M. McCabe などの外国研究者とも知り合うことができ,当時はあまり感じませんでしたが,今考えてみると素晴らしい研究環境でした。このような医化学教室における研究者との出会いは,私にとってかけがえのない大きな財産と思っています。
(1975.4〜1979.1 金沢大学医学部 薬理学 教授) 


医化学教室第7研究室の思い出

堀 川 三 郎   
 京都大学医化学教室発足100周年おめでとうございます。
 医化学を去ってからはや10数年の年月が経ちましたが,今でも医化学教室のあの3階建ての立派な建物と共に,私が最初に研究をスタートした沼研第7研究室のことが昨日のごとく思い出されます。当時の医化学第二講座は,沼教授をはじめ,中西助教授,上領,田辺,北島の各助手の先生方がそろった,そうそうたる研究室でした。私は大学院生として,1階奥のいわゆる第7研で,中西先生のご指導のもと実験をすすめることになりました。当時,中西先生のグループはまだ小人数で,泰井さんが中西先生の右腕的存在で活躍しておられました。大学院1年の私にとっては,医化学の玄関の左手に並んだ高名な先生方の名札板を眺めるだけでも緊張した毎日でしたが,玄関から10メートルほども離れていない7研につくと,なぜかほっとしたものを感じたものでした。それでも,最初は緊張の連続の日々でしたが,毎日の中西先生と泰井さんの絶妙な会話のおかげで,厳しいなかにも楽しい研究生活を送ることができました。やがて,内科から北さんが中西グループに参加してきました。北さんが参加して,なおいっそう研究が活発になると同時に,部屋の雰囲気もにぎやかで楽しいものになっていきました。当時,実験の都合で毎日大量のバイアルを使い,3桁,いや4桁ぐらいのバイアルを,後でまとめて洗うことがありました。普通は4人で洗うのですが,なにかと時間のある(暇をもてあましているという意味ではありませんが)北さんと私が洗いの中心で,2人で並んで雑談をしながら,時にはぶつぶつ言いながらだったかもしれませんが,有機溶媒の匂いを堪能しつつ洗ったことも,なつかしい思い出のひとつになりました。やがて,外科から井上さんが参加してきました。井上さんは泰井さんと同期で,中西先生の頼りになる右腕として活躍されておりました。いつでしたか,私が実験で指を切ったとき,北さんに京大病院に連れていってもらい,後日,井上さんに傷口の糸を抜いてもらったこともありました。一方,忙しい研究の合間に,中西先生が率先してみんなを連れて昼休みに植物園にいったり,比叡山や西山の方へドライブしたりと,みんなに実験の息抜きをさせて,気分転換をはかってくれましたことも,結構楽しい7研の研究生活の思い出となっております。
 また,7研といえば,8研も忘れることができません。実際はほとんど同じ研究室みたいなもので,普通は7,8研と呼ばれていました。室長(?)が保坂さんで,脳外の三木さん,ドイツ人のシーレさんがいました。両方あわせると,そこそこの人数でした。昼食や夕食も一緒に連れだっていってましたから,ほとんど同じ研究室のメンバーといってもいい程で,研究のテーマだけが違うという状況でした。
 思いつくままに,医化学の大学院在籍時の研究室のことをなつかしく書きつづりましたが,沼先生が在職中にご他界されましたことは,誠に残念でした。
 最後に,医化学教室の今後の益々のご発展を,お祈り申し上げます。
(1975.9〜1983.9 東京医科歯科大学難治疾患研究所 病態生化学 助教授) 


随 想:医 化 学 教 室 と 私

清 水   章   
 本庶先生の不肖の弟子である私は,先生の御指導を賜った期間の長さにかけては誰にも負けないと思う。実際,現任地で独立させて頂くまでに,直接御指導を仰いだ期間だけでも,学部学生の頃から始まり,途中休職させて頂いて米国で過ごした時間を除いても実に16年に及ぶ。私と医化学の繋がりも同様に長期に及ぶと思われがちだが,医化学に実際に籍をおいた期間は意外に短い。休職期間を除いてしまうとたった2年半しかなく,遺伝子実験施設が設立された後,建物の一部が完成するまでの間,第6研究室に居候させて頂いた分を入れても5年に満たない。にもかかわらず,私の中における医化学の存在は大変大きいものがある。多分それはその伝統,すなわち,この100年間にわたって受け継がれてきた学風,偉大な業績など多くのものが,本庶先生や諸先輩方を通じて私に影響を与えて下さったためであろう。
 私と医化学の繋がりは,もちろん本庶先生を介するのもであるが,まだ東京大学の医学部学生だった頃に始まる。本庶先生が,私も一部お手伝いをさせて頂いた,マウス脾臓細胞における抗体 L 鎖 mRNA 発現誘導に関する研究成果を恩師である早石先生の前でセミナーされることになり,先輩である片岡徹先生(現神戸大学医学部教授)とともにお供を許させて医化学教室に初めて足を踏み入れたのである。当時何も判らない学生であった自分にも,それまで見聞きしたのとは違う,極めて活発な研究室の雰囲気,セミナーにおける白熱した議論は新鮮な驚きであり,世界のトップラボの一端に触れた思いがしたものである。そして自分も,いつかそのような環境に身を置きたいと願った。しかし,その時はまさか自分が医化学の教室員として籍を置かせて頂けるようになるとは夢想だにしていなかった。
 私と医化学の繋がりが,現実のものとなったのは,それから8年後,本庶先生が医化学教室第6代の教授として着任され,それに伴って,私も大阪大学から転任することになった時である。実は正式に転任する前に,転任後すぐにでも必要な機器類をあらかじめ購入していただけることになり,(本庶先生は確か御出張中だったので)当時の高井克治助教授に大阪から呼び出されて,今はもう取り壊されてしまったあの教授室へ通され,夜遅くまでかかって選定決議書を作成したことがあった。思えば医化学の教授室に足を踏み入れたのはあの時が最初であったような気がする。その独特の雰囲気に圧倒されそうになった記憶があるが,爾来,あの教授室は私が本庶先生から何度となくお小言を頂戴する場となったのである。
 大阪からの移転は,研究面では国際的競争の真っ直中に行わなければならなかった。このため,阪大医学部の遺伝学教室にいた研究グループをテーマ別に2つにわけ,セットアップなどのために研究室全体がストップしてしまわないようにした。この時,先遣隊を命ぜられて医化学に赴いた私達はまず,高井先生から譲って頂いた第4研究室に入り,吉田龍太郎先生が渡米された後の第6研究室と,その奥にあった細菌培養室の改装をしつつ,研究をしなければならなかった。一緒に移転した仲間には,生田宏一氏(現医化学助教授),福井 清氏,(現徳島大学教授),石田直理雄氏(現工業技術院微生物工業技術研究所主任研究員),佐辺寿孝氏(現大阪バイオサイエンス研究所主任研究員)などがいたが,二階堂敏雄氏(現信州大学講師)が中心となっていた IL-2 受容体 cDNA のクローニングがまさに成功し,一刻を争ってその塩基配列を決定しようと(当時は Maxam & Gilbert の化学修飾法で僅かずつ決めていた)してた時期でもあった。そのため,京都組,大阪組とも昼夜二交代で実験し,サンプルを持って京都と大阪を毎日誰かが往復していた。そのため,医化学教室におられた諸先輩方には大きな御迷惑をたくさんおかけしたが,研究第一ということで,暖かく迎えて頂いたことは,今でも感謝している。思えば,あの時,医化学でやらせて頂いたことのおかげで大きく成長でき,自信がつき,今の私の大きな,かけがえの無い財産となっているのである。
 伝統の教室に感謝しつつ筆を置くことにする。
(1985.4〜 京都大学遺伝子実験施設 施設長 教授) 


脂質メディエーターの地図づくり

清 水 孝 雄   
 東大の内科に入局した私は一応呼吸器が専門で,代謝臓器としての肺を研究したいという気持ちで,早石研に入門した。最初の2年は平田扶桑夫助手の下,インドールアミン酸素添加酵素の精製に従事し,また,後半は山本尚三助教授に師事し,プロスタグランディン代謝の研究を行った。仕事は困難の連続だった。仕事が簡単にまとまっていたら,論文を勲章に内科に戻っていたかもしれない。山本助教授が徳島へ行かれた後は,当時の14研を率いて引き続きプロスタグランディンの研究を続け,私自身は脳のプロスタグランディン受容体研究を進めた。私と一緒に研究をしていたのが,渡部紀久子(現東亜大学教授),近藤規元(現小野薬品研究所長),上野隆司(現上野製薬研究所長),徳本秀門(現小野薬品,在米),渡辺 毅(現福島医大教授)の各氏らであり,また,当時医学部学生だった内木宏延君は現在福井医大の教授となった。隣の教室では沼,中西グループの ACTH 遺伝子の研究がネーチュアの表紙を飾った時代だった。レベルは違うが,私たちも新しい発見に興奮していた。医化学の朝は9時頃から始まり,コールドルームの中での実験は夜2時過ぎまで続いていた。家は寝るだけの場所であり,運末はアルバイトで当直に行っていた。当直あけに教室へ来て,まず,あの中庭の風呂に入り,その週の実験が始まった。昼は近くで洋食をとり,夕方には「東京ラーメン」へ行き,深夜に沼研の人たちとも一緒に百万遍へ中華料理を食べに行くという具合で,およそ健康的とは言えない食生活であった。たまに暇を見つけると医化学前のコートでテニスに興じ,沼先生に怒られた。冬は北山へ,春は比良,夏は北ア,秋は大台ケ原と佐藤君,平野さん,寺尾さん達とよく山登りをした。よく遊ぴ,たくさん実験した輝くような,そして向こう見ずな30代だった。堀口さんが事故でお亡くなりになった夏,脱水とショックで心房細動を起こし,京大病院に一日入院したこともあった。岩山から落っこちて,肋骨を3本折ったこともあった。早石先生は当時(今でもそうだが)大変怖い存在であり,会わないに越したことはない。先生は独特の香水をつけておられ,その匂いを廊下でかぐと,匂いの勾配から先生がどちらへ動いたかがわかり,匂いの下流方向へよく逃げたものだ。
 あれから20年,今は自分が逃げられる立場になっているが。早石先生が強調されていた「自然を観察すること」の重要性はキットが多くなった今の研究でも最も私が重要視する点の一つである。
 代謝学への興味は,その後も引き続き,カロリンスカ研究所,東大へ戻ってもプロスタグランディン,ロイコトリエン系の酵素と代謝経路の発見に関わる仕事を続けた。これは「地図を作る仕事」として私の原点となっている。「脂質メディエーター」は予め細胞内に貯蔵されているのではなく,必要なときに産生され,その役割を果たすとすぐ不活性化される。従って,代謝酵素の研究が重要になってくるのである。さらに,細胞の中で酵素は刺激に応じてその局在を変える,そして活性も変えている,そのダイナミックな動きは GFP などを用いて可視化が可能となり,カルシウム動態との密接な関連もわかってきた。1988年に免疫研の中西教授を訪ね,アフリカツメガエルの方法を教わったことが,その後の脂質メディエーター受容体研究へと発展した。現在は,10人を越える大学院生とともに,脂質メディエーターの神経系での機能を中心に研究を進めている。神経細胞で酵素が軸索か樹状突起か,あるいは核膜へ動くかの動態の観察は,これらの分子が果たす機能を考える上で決定的に重要であろう。私の学位論文が「プロスタグランディン D 2 の脳における代謝と機能」であるから,今,原点のテーマに
戻ったということである。一度教室のホームページをおたずね下さい(http://www.
biochem2.m.u-tokyo.ac.jp/web/index_j.html)。
(1975.4〜1982.4 東京大学医学部 細胞情報研究部門 教授) 


京 大 医 化 学 か ら の 贈 り 物

谷 口 武 利   
 私がマスターコースの学生だったころ,日本生化学会の最終日,上代先生が Tu ファクターの結晶のスライドを見せながら素晴らしい講演で幕を閉じた。講演が終わると,皆各教室の先生の周りに集まり話しながら駒場の駅に向かって歩いていた。そのとき自分には,同僚もいなければ教授スタッフも誰も来ておらず,たった一人ぽっちであった。このとき,自分は研究の分野では孤児なんだなと感した。そんなこともあって,思い切ってミシガン州立 Wayne State University のドクターコースに入学した。言葉の壁は予想以上に大きく苦労したが,何とか修了し Ph.D. をもらった。その後,ポストドクターとして京大医化学教室でお世話になることになった。すると一転して,生化学会では,どこのセッションをのぞいても,京大医化学 OB の面々が,座長を務めていたり,シンポジウムで講演をしていたりして,まさにメイジャーラボの一員になっていることを実感した。研究も半年程で京都で行わてていた国際学会で話しをさせてもらい,これまでどうやっても通らなかった J. Biol. Chem. にも,いとも簡単に通ってしまった。 このころ最もいやだった教室員全員の前での Progress Report では, J.B.C. の reviewer より厳しい質問が飛んできたのを覚えている。今になって思うと,このレベルの高い討論こそが,京大医化学のプライドとも言うべきものだったのだろうと思い,うらやましくさえ思えてくる。昔の京大医化学のトイレには,『医化学は医学の王者』と書いてあったが,そんなプライドを持って研究しているメイジャー大学とは異なり,この小さな新設医大では教育や臨床活動が大手を振り研究は遠慮しながら行うものになってしまっている。しかし,生化学会途中に行われる京大医化学 OB 会に出席すると,『研究は大学で最も大切なものだ』『医化学はやはり医学の王者だ』といった息吹を吹き込まれる。高校球児が,甲子園の土を持ち帰り自分のグラウンドにまくように,そのスピリットを自分のラボに持ち帰り今なお研究に取り組み続けている。(1976.2〜1977.12 高知医科大学実験実習機器センター 助教授) 


医化学教室在籍時の食生活を中心とした思い出

井 階 幸 一   
 1976年から1980年の間,医化学第一講座で勉強させていただきました。そのころの医化学第一講座は英雄,豪傑が雲集しており,さながら梁山泊もかくなるかという様相を呈しておりました。医化学第一講座の名を汚す劣等生ではありましたが,そのような環境で勉強できたことを大変感謝しております。私は怠惰な大学院生でしたので,午前10時より前に研究室にくることは滅多になく,午前中うろうろしているうちにランチセミナーが始まります。ランチといってもセミナー室で食事をしているのは N 教授だけで,よく出前のラーメンを食べておられたのを記憶しています。N 教授が在職中に死去されたのもあの食生活が原因ではという声もありましたが,どうでしょうか? ランチセミナーのあと私達は本当のランチの時間になるわけですが,それにたっぷり時間をとり,研究室に戻るともう午後3時のお茶の時間です。当時,4研で一同お茶を飲み,Y 助教授の講釈をきくということになっておりました。そのときに耳から得た情報は大変貴重でしたが,とりわけ,紅茶を美味しくいれるにはまずテイーカップを温めておくとよいという Y 助教授の教えにはなるほどと大変感心し,以後,忠実に実行しています。お茶のあとは適当に実験らしきものをして,夕食をすませると待望のナイトライフが始まります。午後10時過ぎになるとそろそろ夜食の時間です。3度の飯より飯が好きという連中を誘って百萬遍あたりに呑みにいくわけですが,夜遅くは医学部の北門を越えるのが大変で,痩せなければと思ったものでした。腹が減ってくると理性を失い,実験をしている友人にすぐに実験を止めて,呑みにいこうと誘惑したこともしばしばでした。思えば罪深いことをしたものです。この紙面を借りて謝罪いたします。おかげさまで,随分,太ってしまいましたが,当時,医化学の仲間と呑んだり,食ったりしていた中で,耳から学んだ学問には実に貴重なことも多く,懐かしく思い出されます。つまらないことを書きましたが,京都大学医学部医化学教室の開設100周年のお祝いを申し上げるとともに,益々のご発展をお祈り申し上げます。
(1976.4〜 京都大学大学院医学研究科 皮膚病態学 助教授) 


デスマッチ(努力は無限である)

北    徹   
 私は,昭和50年臨床系大学院に入学し,春から医化学のランチョンセミナーに出席しながら,医化学の様子を観察していました。弁当を食べながら,いつも「スルドイ」質問をしておられ,親しみやすそうな中西重忠先生に親近感を覚え,第3内科の大学院ですが「教授から心肥大の生化学の研究をやるように」といわれ困ってますと相談しました。当時,心肥大の専門家である alpert の「Cardiac hypertrophy」を読んでも心肥大のメカニズムを解く手がかりが無いように思うと申し上げました。
 先生は,まず生化学そのものを理解することが大切であり,テーマはそれほど重要でないと言われました。自分のところは,ACTH の遺伝子構造とその調節をやっているので,一緒にやらないか!! と言われました。その後,沼 正作教授に紹介して頂き,4年間医化学にお世話になることが決まりました。基本的には,泰井俊造博士が見い出した牛下垂体中葉から ACTH-mRNA を抽出するのが私の仕事で毎日まず,フェノールを蒸留し,その間に第2市場に行き40頭分の下垂体を持ち帰り Total RNA をフェノール・クロロホルム法で抽出を繰り返すものでありました。その後,Oligo-dTcolumn,Poly-U-Sepharose,ショ糖密度勾配により最終的に精製することができました。最終カラムの ACTH-mRNA の入っているチューブに何故か,私の「まつ毛」が入っており,“ボーゼン”としていましたところ中西先生が,エタノール沈殿されたのには,私もびっくりしましたが,とっさの先生の判断には「まいった」ものであります!! この精製された ACTH-mRNA の純度を調べるべく当時東大におられた本庶先生のところへ教えて頂きに行くことになり,第6研究室から本庶先生にお願いしましたところ,都合がついたら Tel しますと言われ待っていました。3〜4日たったところで,沼先生が,「北さん」東大行きはどうなりましたか?? 本庶先生からの御連絡を待っています,と答えましたところ,突然,「あなたに熱意を感じない!! 以前から,あなたは,時々土,日曜日に lab に来ていない事に気付いていましたが,研究に対する努力は無限ですよ!! とおこられたのには,私も言葉がありませんでした。その後論文を書いて,教授に持って行き,その後2週間に渡る「デスマッチ」が始まりました。数日経った頃でしょうか,「北さん,あなたの英語は,中学生以下です!!」といわれ私の論文をビリビリに破られました。私は言葉もなくただただ,その場で直立不動でしたが,しばらくして「先生,英語は,小学校では教えてもらってませんが!!」と申し上げましたところ,再び大変な説教を頂きました。教授室から出て行く際,吉沢さん(当時の秘書)から,「北さん,これは皆が通過してきたものですから御心配なく!!」と言われたのを覚えています。2週間後8月16日に吉田郵便局から E.J.B に論文を送り,医化学の屋上で開始された「大文字の見物パーティー」に参加しましたが,早石教授から「オメデトウ」,皆様から「デスマッチ終了オメデトウ」と言われ,沼先生から「北さん,よかったね!!明日から新たな気持ちで新しいプロジェクトをやりましょう!!」と言われたのが,昨日のようであります。その後,沼,中西先生の御推挙で,米国 Goldstein,Brown 博士のところへ留学させて頂き,帰国後,第3内科にお世話になり,昭和63年から老年科でお世話になって今日まで来られましたのは,医化学の皆様のお陰であると常々感謝の念で一杯であります。「医化学時代」の教え,初心に返って気を引き締めて,今後とも努力を重ねていきたいと考えています。皆様の御発展と御多幸を心よりお祈り申し上げます。また,沼先生の御冥福を心からお祈りいたします。
(1976.4〜1979.12 京都大学大学院医学研究科 臨床生体統御医学 教授)