渡 部 紀久子
医化学教室100周年を迎えられましたことをお祝い申し上げます。
私が医化学教室にお世話になり,その後も医化学教室と御縁のあるところで研究を続けて参りまして,早くも20数年の月日が過ぎようとしております。奈良女子大学の修士課程を終了後,ふらふらと現れました私を山本尚三先生が拾ってくださったことが昨日のことのように思い出されます。それまでの環境とは全く違い何も知らず,わからない私に研究の一から丁寧にお教えいただき,この時のことが現在まがりなりにも研究を続け,また若い人たちに教えていくことができることの基礎となっております。山本先生が徳島に御栄転後,清水孝雄先生にお世話になり研究をすることの楽しさと厳しさを,清水先生が留学後は吉田龍太郎先生にデイスカッションすることの大切さを教えられたように思います。それぞれ持ち味が異なる先生方でありましたが,共通して人間味あふれる暖かいお人柄の先生方に御指導いただきましたことは,私にとりとても幸運であったと感謝しております。研究する中で,人やいろいろな物事とのかかわり方を早石
修先生をはじめとして多くの先生方にお教えいただき,生きていくうえでの礼節,知恵を学んでいったことも現在の私には大きなことであります。研究以外で医化学在籍中に人生の慶弔事も経験し,特に在籍中に娘が誕生いたしましたことは個人的な喜びとは別に他の人と組んで研究をしていくことがどういうことかを体得した出来事でした。つらくてやめてしまいたいと思ったこともたびたびでしたが,その中でも仕事をすることの楽しさも十分に味わえたからこそ,現在この当時一緒に過ごしたの方々とお会いするとすぐに昔に戻り,お話をすることが楽しく感じられます。
医化学教室で教えていただきましたことのどれくらいを私が修得できたかは不安でありますが,今春より着任致しました東亜大学大学院で,ある一定の心の余裕を持ちながら研究をしていく厳しさと楽しさを次の世代の若い人たちに伝えていけるよう努力したいと思っております。
常に日本のまた世界の先陣として歩んで来られました医化学教室のますますの発展を心よりお祈り申し上げます。(1977.4〜1983.9
東亜大学大学院 総合学術研究科 生命科学 教授)
寺 西 豊
卒業以来5年ぶりに,京都での研究生活を送るべく上洛したのは1979年3月でした。大学院の5年間を過ごした東一条の馴染みの下宿のすぐ前にある,見慣れてはいたがあまり出入りのなかった医学部北門から構内に入りました。百万遍の工学部の雰囲気になれていた私にとっては多少の違和感があり,「これはなんだろう?」と感じた記憶が印象的でした。
そのまま歩を進めて旧医化学の建物に入り沼 正作先生の教授室を訪れた時は,丁度 Nature に pro-opiomelanocortin
cDNA の paper が発表されたばかりのころで,研究室は異様なほど活気がみなぎっており感動した記憶が残っています。
しかしそこから先が異次元の世界の様でした。それまでの工学部の学生時代と社会人生活を通して得てきた常識とは全く異なった世界に来ていることを,露ほども想像していなかった自分の甘さに気がついて,愕然としましたがすでに後の祭りでした。なれない常識にきりきり舞いさせられて苦労をしつつ,でも最先端の研究生活を楽しむ事の出来た3年間でした。その時期の事で思い出に残っているいくつかの医化学・沼研究室の常識が,20
年をへてどう変遷を遂げたかを知りたいと思い,この機会にここで紹介させていただく事を思いつきました。(はたして世界標準の常識に発展を遂げたのでしょうか? 諸先輩の判断を仰ぎたいと思っています。)
1)公私の区別
研究室で直接沼先生が風邪を引いたヒトに向かってよく言っていたことですが,「緊張感が足りないと風邪を引きます。緊張感を保って
ACTH を分泌するようにしておけば風邪は引きませんよ。従って私は風邪を引いたことがない。」それが昂じて,風邪で病院に行っていてプログレス報告会に遅れたヒトに先生からの一言「公私混同すべきじゃない。」風邪を引くことは私事でしょうけどもムム。これは当時の医化学第二講座の常識でした。
2)ストレッサー
小生は,比較的タフな身体の持ち主と自負していましたが,この京都時代に1度だけダウンしました。言葉どおり食事が喉を通らない状態が続き,沼先生に知られるのを恐れて京大病院ではなく,安井病院の先生にみていただいたら,「ストレス性の急性胃潰瘍ですね。原因がわかればそれを除けばいいんですよ。大丈夫すぐ直りますよ。」といわれ,納得しました。これは医学の常識ですよね。しかし「何か思い当たる事はありますか?」と問われて,しばし絶句しました。お分かりかと思いますが原因は沼先生の存在自身でしたから。これも医化学沼研究室の常識でした。
3)正月の出来事
忘れもしませんが,1979年12月31日に仕事を終え,医化学でのほんの少しの仕事を沼先生に引き継いで頂き,自宅に戻り元旦を久しぶりに家族でゆっくり過ごしました。明けて2日の昼頃でした。さて郷里の明石に帰って2〜3日ゆっくりすごそうと準備していると,突然電話がなりはじめ愚妻が取り上げると沼先生からだとの事。これを聞いて小生が電話口にでると,「沼ですがムム(しばし沈黙)。正月は休むと言っていましたが,もう2日です。いつから研究室に来るのですか?」といわれ絶句。その日の夕方から研究室に復帰しました。確かに新年は1月1日のみですがムム。これは,世界の常識でしょうね??
でもこれらの事も今は懐かしい想い出になりました。色々な基準の常識が存在することが分かり,常識は疑ってみるべきもので,必ずしも真理ではないというごく当たり前の事を改めて教わった医化学時代でした。厳しい指導を身をもって示していただきました沼
正作先生に感謝し,改めまして先生のご冥福をお祈りいたします。
(1979.3〜1982.2 三菱化学医薬カンパニー 製品計画部先端医薬グループ 部長)
陣 上 久 人
私が医化学教室の存在を意識しはじめたのは,学部1回生で早石 修,沼 正作両先生の生化学授業を受け,実験というもののイメージが抱けた時でした。全身の骨の名前を覚えていた時に両先生の名調子は何とも言えない媚薬のようにしみこんできたことを覚えています。早石先生が「たくさんの君達の先輩が医化学教室に学生実験をしにきていますよ」と話されました。当時私は硬式庭球部員で公衆衛生学教室横のテニスコートでボール拾いばかりしていました。しばらくするとクラブの先輩であった成宮
周,岡 純両先輩から「君はテニス部のレギュラーにはなれそうにないので,夏休みに医化学で実験したらどうや?」と誘われました。確かにテニスの才能はないけれど,そうかと言って,実験ができるのかな? と疑問だったのですが,誘われるままに教室へ出向きました。上田國寛先生のところで学生実験をさせていただきました。鳩の心臓やほうれん草から必要な酵素を抽出したことを覚えています。同じ部屋に山本尚三先生がおられ,神業のような早業で実験と事務仕事をこなしておいででした。また岡山博人先生の大学院スタートに巡り会い,先生の下宿探しにもおつきあいしました。そうこうしているうちに,内科研修中の成宮,岡先輩が私の下宿にきて,血相を変えて「陣上君,僕たちは決心したぞ,ビールを出せ。」と叫びました。何事が起こったのかとこちらが目を白黒させていると,お二人が医化学の大学院へすすむ決意をしたとのことでした。なるほど,医学部学生が基礎医学を専攻するのは相当の決意がいるのだなと感激ひとしおでした。
その後,私は内科研修,赴任して内科大学院へ進みましたが,当時の主任教授の井村裕夫先生に甘えさせていただき,内科を Duty
free にしていただき沼先生の教室で実験生活に入りました。語ればつきませんが,沼先生ム中西先生の絶妙のコンビネーションで朝(中西先生)から深夜(沼先生)そして翌朝(中西先生)へと終日,薫陶を受けました。ほぼ毎日夜10時ころ沼先生が研究室へおりてこられ,「きょうの実験は如何でしたか?」と質問され,わたしがデータを説明すると,「では明日はどこそこまで進みますね。」,なにかミスがあると,「なぜすぐやり直さないのですか。」といった調子でした。沼先生とクリーンベンチの前に並んで,cDNA
ライブラリー (GCtail) のトランスフォーマントを1個ずつ拾い,Amp,Tet のプレートにぬったり,制限酵素を先生のエッペンチューブに入れさせていただいたりしたことなど,いまでもありありと思い出されます。まさに君臣並耕で教えられました。
留学後,私は内科医を続けましたが,気がつくと,現在,生物分子工学研究所で基礎研究をしています。お隣の OBI には早石先生や医化学の仲間がいます。結局,医化学教室に戻ってきた感じです。更に本研究所所長は,日曜の朝6時に沼先生に「PstI
はありませんか?」と電話をかけられ起こされたことのある志村令郎先生です。思うに,あの暑いテニスコートを抜け出して,医化学教室へ遊びに行った時に現在のあり方がインプリントされてしまったのでしょう。なんと恐ろしく魅惑的であり,かつ本当に恐ろしい教室だったのでしょう。
(1979.4〜1984.8 生物分子工学研究所 機能解析部門 部門長)
野 田 昌 晴
1978年の暮れであったと思う。助教授の中西先生に連れられて教授室に入った時,初対面の沼先生の顔は,不思議に「懐かしい」という感じがした。それが13年間のお付き合いの始まりであった。沼先生は私に対して決して妥協を許さなかったが,私も先生に対してそのように接した。どちらが先であったかは,今となっては判らない。
1980年以降,連日の徹夜で仕上げた論文は,大阪の中央郵便局まで出しに行くのが習わしになっていた。あれはアセチルコリン受容体の
α サブユニットの論文の時であったと思う。「今日は,私も行こうかな」と言って,論文の封筒を我が子の様に抱えられた。名神高速を古谷さんが車を走らせ,着いたのは朝の6時であった。いつものように夜間受付に出して終わりと思っていたところ,徹夜明けの先生の言葉は「いつ通常の窓口は開きますか」であった。「8時です。」「あと2時間か。待ちましょう。」我が耳を疑ったが,その時,大阪駅のスタンドで食べたゆで卵とコーヒーの味は今も忘れない。そのあと,教授室まで戻って例の決まり文句を言われた。「これで仕事をしたと思うな。」
私は大事な data が出る時はいつも先生を実験室にお呼びしたが,その度に必ず来られた。暗い暗室の中で,二人きりで開けたフィルムがネガティブな結果であったことも幾度かあったが,何も言われたことはない。Na+
Channel の時,得られたクローンが本物であることを確認し,研究グループ・メンバーの興奮が落ち着いた後,私は教授室に電話を入れた。「これからシークエンスを開けますが,来られますか?」「よし!」 清水伸さんは既に乾いてしまったフィルムをもう一度水で濡らし,一度,3研の外に出た。沼先生が来られてから,我々は30分程前の行程を,それがリハーサル後の本番のように演じた。沼先生の破顔一笑,してやったりというお顔が今も浮かぶ。「いい
data だね,いつ出たの?」「先週です。」この時,一瞬曇るボスの表情を読み取る若い研究者は,今は少ない。
私は先生に言葉を選ぶことはなかった。従って衝突したことも度々あった。留学するという最後の日,挨拶にうかがった時,先ず出たお言葉は,「君はこれまで私に対して数々の無礼があった」であった。これは,また2時間説教か,と思った瞬間,「まあ,ええけどな。頑張れや」ときた。ヤレヤレ。
ドイツにいる時も何度か電話をいただいた。「先生,段々と教室も寂しくなったでしょう」と言うと「いや,未だ何か判らんが一杯おるよ」と返された。
ドイツから基生研へ赴任することになり,帰国の挨拶に伺った時,秘書さんから「先生はいつもは午後2時頃来られるのですが,今日は朝からお待ちでしたよ」と言われた。久しぶりにお会いしたお顔は思った以上にお元気そうであった。いろいろ話した後,「これから助手を探すことになりますが,先生,若い人と1時間程話して,その人の能力が判りますか?」と聞いた。先生の答えは意外にも「わからん……。」であった。私は一抹の寂しさを感じた。それが沼先生にお会いした最後となった。
私は沼先生に「父親」を感じていたのかもしれない。今も時々声を聞く。「君,近頃たるんどるぞ!」
(1979.4〜1991.8 岡崎国立共同研究機構 基礎生物学研究所 感覚情報処理研究部門 教授)
矢尾板 芳 郎
「ここが医化学の建物や。」清水 章さん(現京大教授)と一緒に本庶先生の車に乗せて頂き,京大に下見に行ったのは本庶先生の京大教授就任決定後まもなくのことだと思う。灰色の古ぼけた,巨大なマッチ箱のようなセメントの固まりの建物がどんより曇った風景の中にそびえ立っていたのが印象的であった。貯水池のわきの入り口から入ると一瞬暗くなり,順応するに従って,徐々に内装の汚れに気がついた。土日だったのだろうか,人気があまりなかったが,実験室に入ると2人位の先生が研究をされていて,丁寧な挨拶をして頂いた。しばらく,本庶先生と今後の行き先について話していられた。高い天井にはススけた電線が縦横に走っていた。その電線から降りてきたものだろうか,布に巻かれた電線が陶磁製のテーブルタップに連結していた。私の実家は片田舎の古い家であったが,そこでさえそんなものは当時にはなくなっていた。しかも,大川さんの小屋の前にはそれらがたくさん垂れ下がっていた。東大から本庶先生について阪大に来たときも汚く思っていたが,京大はそれをはるかに上まわっていた。便所など言うに及ばない。このような環境だからこそ,世界の生化学を支えている研究者が多数育ったのだと感心した。東大にいた頃,江橋節郎先生が同じく古い建物で研究されていて,「独創的な良い研究は古くて汚い実験室から生まれるものだ。」おっしゃっているのを思い出したからだ。
その後,医化学第一講座の助手にさせていただき,本庶先生のご指導のもとに第4研究室で野間喜彦さん(徳島大学),内藤隆之さん(日本たばこ産業株式会社),東
千尋さん(阪大),田辺さん(ミドリ十字),木梨達夫さん(東大),松田文夫さん,高橋正純さん(京大)と共に lymphokine
の一種である IL-4 と IL-5 の遺伝子のクローニング,構造決定,その多種の生理活性についての研究を行った。また,高橋さんとは自己免疫疾患モデルマウスの研究も進めた。一方,本庶先生の卓越した独創的な発想法に従って働くことにより,多くの業績を得ることができたが,それは自分の実力以上のものであり,自分が独立した研究者として活動した時にはどうなるのだろうかという不安が大きかった。また,これから科学者として何をやるべきかに関しても悩んでいた。私が学生時代に基礎医学を専攻したのは,病気の診断,治療法への貢献するためと考えていたが,当時はそれに対する興味が諸事情(自分の無力さなど)から次第に薄れてきており,何を基準にして決めたらよいかわからなくなっていた。悩んだ結果たどりついたことは極当たり前のことである「単に自分が興味を持てる事をやる。」ということである。遺伝子クローニングでアフリカツメガエルに親しんでいたこともあり,子供のころから興味があった両生類の発生をやろうと考え,Don
Brown 博士のもとに留学した。当時,全然やられていなかった初期発生を将来,研究しようと思っていたが,在米中に他の研究室で大幅に進んでしまったために,変態に変えた。
あれから10年以上の月日が流れ,あの古い医化学の建物はなくなり,私の人生も大きく変わってしまった。今も両生類の変態の研究を子供の時に抱いていた興味を持って続けている。少ない研究費,人手であるが,textbook
に自分の仕事をより多く引用してもらうことを目標にして頑張っている。そんなに古くない清潔な実験環境で研究しているせいか,論文の数が少ない。最近,「実験医学」で白楽ロックビルの書いている「バイオサイエンス研究の動向をさぐる」を読んでいたら,まだ実用化されていない「空想科学小説にみる人間改造のアイデア」がいくつかあり,その中にパントロピーというものがあった。それは過酷な環境(海,宇宙など)に適応して生きていける新人類を意味するらしい。太陽もいつかは死ぬのだから,私の研究もパントロピーの基礎研究になるのかなと思っている。
(1979.4〜1990.7
(財)東京都医学研究機構 東京神経科学総合研究所 分子発生生物学研究部門 副参事研究員)
山 本 徳 男
私は東北大学農学部を卒業し,宇都宮大学で修士を得て後,1980年に京大医化学教室沼研究室に博士過程学生として入学し,大学院の4年間を過ごしました。これは東北大学の大学院の入試に落ちたためで,落ちて沼先生の研究室にたどり着いたことが,研究者として歩み出す大事な一歩でありました。もし,東北大学の大学院に合格していたなら,今日の研究者としての私はなかっと思われます。
沼先生のもとで,私はきついの一語につきる大学院時代を過ごしました。大学院に入って数日後に「君,もう大学院をやめなさい」と言われました。当時私の研究していた酵素は室温で数秒で失活する酵素で,私が不安定を言い訳の材料にしたことに沼先生は激怒しました。親にも怒られたことがなかった私には大変なショックで,夜叉のように激怒する沼先生に目を覚まされたことが私の研究者としての第一歩であり,今でも沼先生に感謝しております。その後,酵素の安定化に励み,精製することができました。最終的に精製した酵素は室温にどんなに放置しても安定でした。これより,先入観や思いこみはいかにいい加減なものか,最終的にはやる気次第であることを学びました。
大学院卒業後,沼先生の勧めでテキサス大学ヘルスサイエンスセンターのブラウン,ゴールドスタインのポスドクとして3年半をダラスで過ごす機会を得ることができました。ブラウン,ゴールドスタインとの3年半は沼研以上に厳しいものでしたが,沼研での修行がなかったなら耐えきれなかったと思われます。恐らく兄弟弟子である北徹先生や陣上久人先生も同じであったと思われます。
私のようなどうしようもない落ちこぼれでも研究者としてなんとかなったのは沼先生と医化学という環境のためであります。仙台にいますと医化学教室のあの刺々しさが懐かしく羨ましくもあります。あの刺激がここにあったなら,もっと研究が進むのにと,残念に思います。医化学は私の青春そのもので,恐らく,みんなが皆そう思っていると思われます。あの当時はみんなが吠えていました。私のような落ちこぼれも,そうでない人も,あの刺々しい日々の中で。そう,研究にのめり込むって,ああいう状態なんだと,過ぎ去った日々が懐かしくも思われます。あの当時の状況をもう一度再現するのは困難ですが,当時のように吠えていたいというのが今日の私の望みの1つでもあり,もうすでに老いにかかっている同窓にも遠慮なく吠えかかってくれるのをお願いしたい。(1979.4〜1983.3
東北大学遺伝子実験施設 教授)
石 田 直理雄
小生が本庶先生にお会いしたのは1979年東大栄養学教室のセミナー室であった。当時日本で哺乳類の遺伝子クローニングができる唯一の研究室で大学院生として受験できるかを御相談に伺った所もうすぐ阪大へ移るのでそちらを受けるようにとの御返事をいただいた。早速つくばの田舎からまだ創立2期目の阪大医科学修士に入学し,10人程度の若さと熱気あふれる阪大医遺伝学教室(中之島)に加えていただいた。入った初日に大学院生の片岡徹先生(神戸大)の厳しくも丁寧な指導の下,夜の1時くらいまで訳も分からず実験室を走り回り流石に世界の一流の研究室は違うと感動すると同時にこの先やっていけるかと不安にもなった。その後も片岡先生や西田育巧先生(名古屋大学)に何かと御世話になり無事修士を卒業し,マウス
IgE 遺伝子の膜結合型の同定と発現の仕事を EMBO. J. にまとめることができた。
その後本庶研では T cell グループという精鋭大学院生チームが結成されたが,小生は何か新しいものを取りたい等と勝手なことを言っては本庶先生を困らせていた。博士課程2年次の時,NIH
から京大へ帰国された内山 卓先生(京大一内)が Tac(卓)と名付けられたマイトゲン刺激された活性化 T 細胞に特異的に発現誘導される抗原を認識する抗体を持ち帰られ当時助手だった前田道之先生(京大再生研),淀井淳司先生(京大ウ研)と共に阪大を訪ねられた。本庶研でもこの分子実体をクローニングし,真にインターロイキン2の受容体であるかどうかを明らかにしようというプロジェクトが持ち上がり,4人の大学院生が教授室に集められた。二階堂敏夫さん(信州大学),福井
清さん(徳島大学),野間隆文君(山口大学)と小生で,Tac グループと名付けられた。グループ結成時に本庶先生が最初に言われたことは今でも忘れられない。その頃造船不況の最中で再建屋として名高い坪内氏の話を引用されて,“君達は決して選ばれた訳ではない。数を減らしただけだ。造船会社も再建のため幹部の数を減らす”とおっしゃられた。この言葉のお陰でその後このグループは結構良いチームワークを発揮する。さらに京大ウイルス研大学院生の佐邊壽孝君(大阪バイオサイエンス研)と助手であった清水
章先生(京都大学)が加わることとなる。1984年の4月から本庶先生が京大医化学と阪大遺伝との兼任が決まられ,最初に我々 Tac
グループが京大引っ越し組の先発隊に指名され6研の一角をいただけることになる。この頃二階堂氏が中心となり,Tac 抗体を付けたアフィニティーカラムを用いて蛋白質の精製に成功し,部分アミノ酸配列から
cDNA 候補を釣り上げたところだった。ところが既に NIH のグループが Tac をクローン化し Nature に投稿中との大ニュースを本庶先生が持ち込んできた。ここからが普段遊んでばかりいた
Tac グループの活躍の場となった。大急ぎで配列を決め,mRNA 発現を確認し,クローン化 cDNA を遺伝子導入しその発現蛋白を確認するという大仕事を皆で手分けし,約1ケ月で
NIH グループにどうにか追いつくことが出来た。この時はさすがの我々も夜中の2時3時まで実験し,深夜の百万遍(中華料理店)に毎日集まってはウダをあげた。この間本庶先生は
Nature 誌に電話連絡し我々も同様の分子を釣ったので少し待って欲しいとの交渉をされた。このお陰で Tac グループはかろうじて命拾いし,米国グループと同時に
Nature Article にこの仕事を発表することが出来た。この激しい国際競争の経験は小生の科学者人生の非常に良い教訓として今でも生き続けている。あきらめずに粘り強くやる気質は科学者としてサーバイブするための1つの重要な要素ではないだろうか?
(1980.4〜1986.3 通産省生命工学研究所 生体情報部 時計遺伝子 室長)
柴 原 茂 樹
私と沼先生との研究生活は2年4か月の比較的短い期間でした。しかし,沼研究室出身者の誰にとってもそうであるように,沼先生との出会いはまさに衝撃であり,人生における転機となりました。いつの日か,私の苦労談を肴に沼先生とゆっくりお話をする機会があるだろうと思っておりましたが,それも果たせぬうちに,先生は亡くなられてしまいました。長くご活躍して頂きたかったのに,残念でなりません。
沼先生との出会いは1本の国際電話から始まりました。当時,私は米国国立心肺血液研究所で,エラスチン遺伝子の発現制御に関する研究に従事していました。1981年夏のある日,沼先生から突然電話をいただき,2人の興味は完全に一致している,助手としてすぐに赴任しないかと勧誘されました。沼先生と面識はありませんでしたが,私の恩師である菊池吾郎先生(当時,東北大学医学部医化学講座・教授)を介して,私を知ったとのことでした。その頃,できれば基礎医学研究者として生きていきたいと考えていた時期でもありました。一方,NIH
における3年目の契約を更新したばかりでもあったため,上司である Ronald G. Crystal 先生には大変ご迷惑をおかけすることになってしまいました。
1981年暮れ,沼先生に初めてお目にかかりました。端正な顔だちをされた紳士という印象を受けました。その後,沼先生の研究への情熱に圧倒されつつ,医化学両講座の多くの人と知り合えたことは貴重な財産となりました。当時,沼研究室在籍者には女の子が生まれるという言い伝えがあり,翌年10月には,わが家でも3人めに女児が誕生しました(命名:希和)。丁度,ヒトゲノム
DNA を大量に調製する必要があったため,私は娘の元気な姿を確認すると,その胎盤を持って研究室に直行しました。娘の DNA
は,コルチコトロピン放出ホルモン (CRH) の論文の Southern blotting の図に登場しています。なお,CRH
の仕事を完成できたのは,森本裕紀,古谷泰冶,野竹三津恵,高橋英雄,清水 伸,堀川三郎の各氏(沼研が誇る強力軍団の一部)のおかげです。余談ですが,娘の
DNA は,その後しばらく Kiwa's DNA として沼研究室の仕事に役立ったそうです。また,3研の住人である久保 泰,高井俊行,植田充美,清水
伸さん達との憩いの一時も楽しい思い出です。
1984年4月,フリードリッヒミーシャ研究所(スイス連邦バーゼル市)へ転出し,初めて自分の研究室を主宰することになりました。幸い,公私ともに快適な生活を送ることができました。こうして,現在も研究を続けていられるのも,沼先生に鍛えていただいたおかげと感謝しています。バーゼルへ移動後も,沼先生からは何回か電話をいただきました。先生は,小生の行く末を案じていてくださったのです。
医化学100周年の随想の依頼を受けた時,真っ先に思い浮かんだのは沼先生のことと宇治宿舎での生活のことでした。幼い息子達と遊んだこと,彼等がよく怪我をしたこと,夜中に娘を風呂に入れていたことなどです。顧みれば,一家を引き連れてのバーゼル行きに,殆ど不安を感じていなかったことも不思議な気がします。若さとは素晴しいことです。最後に,15年前の春,バーゼルへ旅立つ際の挨拶状に添えた句を再び披露させていただきます。
春一番 平等院の 鳳凰に
(1981.12〜1984.3 東北大学大学院医学系研究科 分子生物学 教授)
黒 崎 知 博
生まれてこの方岡山大学卒業まで岡山を離れたことのない私にとって,やはり岡山は自分を育んでくれた町であった。その私にしてみれば,京都は新幹線で1時間の距離であるが,いってみれば飛行機で12時間のアメリカに留学に行くような気分であり,果たして自分が京都大学沼研究室のような世界を代表する研究室でサバイバルできるのか,正直,人知れぬ不安感に陥っていたのもである。もちろん,この感じは沼先生の研究室で研究を始めた4月3日初日にもっとも鮮明になる。研究室の人の多さ(部屋の周囲のストーンベンチを多くの人が,這いつかんばかりにデスクをもって研究を展開している光景は岡山育ちの私には全く初めて見る光景であり仰天したものである。)及び,全員が全員夜10時にも11時にも帰宅しないのを見るや,もうこれは今まで25年間経験したことのないようなものを見せつけられたものである。スイスから帰国されたばかりの三品助教授(現東大教授)について,研究を始めたが今からして思えば簡単な
DNA コントラクトであるが,この実験もなかなか上手くいかずやっと上手く行った頃には,もはや京都の蒸し暑い夏になってしまっているという始末であった。当然ながら,実験が上手くいかなかった時は,三品先生にいろいろと叱られはしたが,このコンストラクトが上手く行った時には,心から喜んでくれて(少なくとも当時の私にはそう思えた),何か医化学のやっと正社員になれたような感じがしたものである。
大学院の2年生の後半から,三品先生のメインプロジェクトのニコチニックアセチルコリンレセプター (nAchR) のカエル卵母細胞を用いての再構成実験に参画するようになるわけであるが,私自身の現在までの研究のルーツはここに凝縮されているようなものである。最初は,なかなかインジェクションが上手くいかず困難に困難を重ねたが,実験系を作る困難さや独創性を思い知るまたとない実践の経験であり,この経験がなかったらどうなっていたのだろうと思う毎日です。
京大医化学教室の大変素晴らしいことは,多子才々多くの有能なスタッフの方々,同僚の大学院生と議論できたことと思っております。また,第一講座,第二講座の方々が分け隔てなく議論することで無意識のうちに他の分野の研究のエッセンスを嗅ぐことができ,互いに刺激し合えたことと思います。そういう意味で,医化学研究室で知り合えた多くの先生方に感謝の気持ちで一杯です。(1981.4〜1985.8
関西医科大学附属肝臓研究所 分子遺伝学部門 教授)
野 間 隆 文
現在の自分を振り返ってみますと,昭和57年大阪大学医学部遺伝学教室におられた本庶佑教授の研究室に研究生として加えて頂いたことが,私の人生の方向を変えることになった岐路に間違いないと感じています。そのきっかけになったことを思い起こしてみますと,医学部の学生時代に,当時広島大学原医研におられた現名古屋大学名誉教授大沢省三先生に「人の遺伝子は,細菌の遺伝子とは違って遺伝子が変化するんよ。」というお話を伺った際に,何だか良く分からないまま,わくわくするような感じを抱いたことでした。医学部の生化学(核酸)の講義では,本年3月広島大学医学部を退官された武田誠郎教授にヤコブ・モノーのラクトースオペロン説のお話を聞いていましたので,遺伝子が変化するというのはとてもびっくりする内容だったのを覚えています。そののち,卒業後皮膚科研修医として医療活動に携わっている際(体力のありそうな風貌でしたので?)皮膚癌や熱傷の患者さんを観ることが多く,癌は遺伝子の異常に拠ると漠然と言われていながら,患者さんに対する治療では,学問的な遺伝子の話は全く出てこずじまいで,手術ないしは放射線治療か抗癌剤投与といった臨床的なプロトコールにしたがって治療し,死ぬ時期を待つことしかできない事をいくつかの場面で経験しました。医者として死ぬ時期を待つのみという,なんとも情けない無念さが記憶の隅にあった「変化するヒトの遺伝子」のことをもっと詳しく知りたいという欲求に駆り立てたように思います。そして,いろいろ調べてみますと,「変化する遺伝子」というのは,実は本庶先生がなされた研究結果の話ということが分かりました。大阪大学に着任されて間もない本庶先生を当時解剖学教室におられた恩師の藤田尚男先生を通じて紹介して頂き,大阪大学遺伝学教室,次いで京都大学医化学教室において本庶先生の御指導を頂くことができることになった訳であります。本庶先生の研究室では,とにかく初日から面喰らってしまったことを覚えています。研究しておられる方々が声もかけないのに話し掛けて来てくださり,その上その話し方がなんと速いこと,さらに日本語らしいのですが,意味が分からない言葉(制限酵素の呼び方)の数々,10人近くの人が
P 3実験室で黙々と作業しておられたことなど,新米の医者だったわたくしは,別天地にやってきた感を強烈に味わいました。こうして,本庶研では,価値観のコペルニクス的大転換を余儀なくされながら,本庶先生の御指導はもとより,高橋直樹博士,清水
章博士,二階堂敏夫博士,石田直理雄博士などの諸先輩の個性ある御指導を十二分に受け,遺伝子の構造と機能を知るすべを学ぶことができた次第であります。その後幸い,NIH
への留学も経験することができ,幅広い視野でものを観たり,考えたりすることの意味が徐々に分かりかけてきたように思います。留学後から現在までは,山口大学の中澤
淳教授のもとで研究,教育について丹念な御指導を頂いております。最近では,学部学生や大学院生の指導を通じて教育とは何か? 研究とは何か? 人生とは何か? といったことについて考えることが折にふれ出てきたように感じます。教育とは子育てと同じであり,研究とは知的思考の具現化であり,人生とは価値観の表現であるような感じがしています。結局のところ,知りたいことや興味深いことはいくつもあるのですが,最近は一番知りたいことから研究するのが大切だと感じています。子供の時のように想像力をかき立てられるような,わくわくするような研究を今後も志向してゆきたいと思う今日このごろです。
(1982.3〜1991.1 山口大学医学部 生化学第二 助教授)
高 井 俊 行
医化学教室に在籍していた時代は既に15年も前のことになってしまったが,今でも当時の沼研究室の様子を鮮明に思い出すことができる。こうやって「沼先生」とワープロで綴ること自体,私にとってずいぶん久しぶりというか,ひょっとして初めてではないかと思うが,医化学教室での4年間は厳しくも懐かしい思い出である。
沼先生に最後にわがままをお願いしたのは,私がニューヨークのスローンケタリング癌研究所に留学する際に,推薦状を戴いたことである。実際に渡米してひと月も経たないうちに先生の訃報に接することになってしまったが,かの地で取り組んだ研究テーマである
Fc レセプターのノックアウトは多少のトラブルに見舞われもしたがうまく行き,これも医化学時代の先生の厳しいご指導のおかげだと感謝しながら帰国した。
15年前の私たちは,たいてい夜中に行われる,先生とのディスカッションに備えてその日のデータを整理していたものである。その日1日の進捗状況がはかばかしくないときはその「理由」と「対策」案を練らねばならなかった。何も具体策を講じていなければ必ず,叱られた。しかし,この研究者を目指す者としては当然のような対応がとりあえずできるようになるのに,私は4年かかった。
原著論文作成の時の沼先生の気合いの入れようは,経験したものでないと分からない,一種独特な世界があった。私などはペーパーワークの経験が乏しかったため,ペーパーに関するいろいろな調べものを命令されたりしたとき,何事につけても要領を得ず,かつ対応が遅かったため,たびたび叱責された。沼先生は教授室から電話でお叱りになることが多く,医化学第3研究室の黒い電話のベルが鳴るたびに「また先生に叱られるのではないか」という思いから一気に心拍数が上昇し,身体が固くなり,冷や汗が噴き出すという条件反射が形成された。私の電話恐怖症はこの時に始まり,今だに治らない。電車やバスで誰かのケータイのベルが鳴ろうものなら,一瞬ドキッとしてしまう。とにかく,当時の沼先生は今にして思えば,「われわれは品質の高い原著論文を作成することが仕事なのだ」という姿勢を,多少の教育的演技はあったかもしれないが,私たちにはっきりとお示しになっていたに違いない。逆にこのときの経験で私は自分のラボの学生が論文を作る際,その調査とチェックの甘さにやはり腹を立て,怒鳴ることはないが叱ることも多々,ある。沼先生のお気持ちが今にしてようやく身にしみている次第である。
> 今,沼先生がお元気でいらしたら,私の研究はどのように評価して頂けるだろうか。「貴方のような取り組みの甘い人がよく教授になれたものだ。心を入れ替えて努力し続けないとだめですね。」という沼先生の声が聞こえてきそうである。当時取り組んでいた神経細胞のレセプターやチャネルならぬ免疫系細胞のレセプターのはたらきを,現在の私は解析しているが,私が研究に興味を持った学部生のころの思いである「病気を治す」ことを追い求めていることに変りはない。追及している研究対象は変っても,先生が常づね事あるごとに強調されていた,「努力は無限」と「学問の王道を歩め」の意味を噛みしめながら今後も私なりの研究を進めていきたい。私のいる東北大に限らず,幸い周囲には極めて多くの医化学教室出身者がおられ,研究を展開するうえで心強い限りである。
(1982.4〜1986.3 東北大学加齢医学研究所 遺伝子導入研究分野 教授)
田 邊 勉
私は,1982年4月より1992年3月までの10年間医化学第二講座に在籍しました。最初の年の思い出としては,忘年会のボーリング大会で3位になって早石先生から直接,賞を手渡されたことです。次の年以降のボーリング大会ではもう賞に手が届くことはなく,これは実験のやりすぎのせいだと自分を納得させるばかりでした。
私の住んでいた下宿は善性院という名前のお寺で,沼先生が“全勝”ということで縁起が良いといわれ,実際研究の方も比較的順調に進んでいたので結局縁起をかついでこの下宿に住み続け,学部の時から合わせて16年間住み続けました。下宿には風呂がなく,医化学風呂には長年お世話になりました。
体力だけは自信をもって沼研に来た私も,沼先生の気力,体力にはついていけず毎年どこかがおかしくなって下宿あるいは病院でダウンする日が5〜6日あり,今にして思えばこの休息のおかげで10年間なんとか生き延びてこれたのだなあと思う次第です。沼研を“出所”後は,体力も取り戻しそれにつれあの10年間を懐かしく思い出し,今の教室のみんなにもぜひあの感動の日々を味わってもらおうと,機会あるごとにさりげなく話しをするのですが,こちらの意図はなかなか通じません。
論文作成の際に“デスマッチ”をやるたびに沼先生のすごさを再認識し,だんだん私の甘ったれた根性も矯正され研究に対する真摯な姿勢を学んでいったように思います。沼研のことを,院生仲間ではその当時話題になっていた登校拒否児の学校にならって,“沼ヨットスクール”と呼んでいました。“努力は無限”と“竹薮の教訓”も印象に残るキーワードですがこれに関しては誰か他の人が書いてくれることでしょう。東京に来て3年が過ぎましたが,こちらにも医化学出身者が大勢いていろんな機会にお世話になっており,同窓生というのは本当にたよりになるものだと感激しております。これからは頼ってばかりでなく自分の方でも頼られても大丈夫なように実績を積み上げていかなければならないと胆に銘じている次第です。
(1982.4〜1992.3 東京医科歯科大学医学部 薬理学 教授)
飛 松 孝 正
旭川から岡山に移って,今年で10年目になる。旭川では大雪山や富良野など,自然の雄大さを楽しんだが,岡山では吉備の国の歴史を楽しんでいる。桃太郎のモデルといわれる吉備津彦命を祭る吉備津神社が近郊にあり,鬼ヶ島といわれる鬼ノ城に朝鮮式山城の遺跡が発掘されている。また,日本で4番目に大きい「造山古墳」をはじめとする古墳群も存在している。しかも天皇陵ではないので上に登ったり見学もできる。古代史の愛好家の方に史跡の多い吉備路周辺はお勧めの場所だと思う。強大を誇った吉備王国自身は5世紀末の謀反を期に弱体化していったが,岡山の人々と接していると岡山の独特の県民性がこの吉備文化に根ざしているのではないかと感じる。古代の吉備人が持っていたであろう誇りと郷土愛とが伝えられたと考えるとなるほどと思える。また,一昨年夏から昨年夏までのカリフォルニア大学留学中には,在米の人々の多様な人生観や価値観が人々の歴史的な経験や民族の文化の継承に根ざしているではないかと感じ,改めて歴史の重要性を再確認した。
これらの歴史に比べると京大医学部の「百周年」は短いともいえる。しかし,広島や長崎への原爆投下がその後の核兵器に対する人類,特に日本人,の考え方を変えたように,ある出来事が人の価値観を大きく変えることもある。
自分自身の経験を振り返えると,学部以来直接ついた教授の先生だけでも6名にのぼる。おかげで,有機化学から生化学や分子生物学,神経分子生物学,栄養学などの色々な学問分野を経験することが出来たし,研究の進め方や考え方等の多くを学んだ。現在,研究者として日々を過ごせているのもこれまで多くの方々に,暖かく時には厳しくご指導していただいたり,色々と助言していただいたおかげである。その中で私自身にとって最もカルチャーショックの大きかったのは博士課程を過ごした医化学である。教室の高いリサーチアクティビティー,活発かつ勉強になったランチタイムセミナー,先生や先輩方,同輩等との熱気にあふれたディスカッション,極めつけは沼先生の完璧をめざした研究に対する情熱である。それまでは雲の上と思っていた高いレベルの研究が急に身近に感じられるようになり,研究感も変わったことをよく覚えている。
現在はラジカル酵素に注目し,酵素タンパクによるラジカルの制御機構を分子レベルで明らかにすることを目指して,ビタミン B12
酵素の構造と機能を解析している。最近,酵素の立体構造を明らかにでき,「Seeing is believing.」という諺を実感している。今後も研究を通して,微力ではあるが,サイエンスの進歩に寄与して行きたい。また,研究の楽しさや研究に対する心構え,オリジナリティーの大切さ等を後輩たちに伝え,日本のレベルアップに貢献できればと思っている。(1982.4〜1986.10
岡山大学工学部生物機能工学科 助教授)
福 井 清
学生時代の講義ノートとともに私の手元に残っている京都大学医学部専門課程1回生の授業時間割表によると,昭和50年度(春学期)レベル教科課程授業科目「A.分子生物学」の講義は,5月24日(土)の第1限早石修教授による『序論』から始まることが記されている。大学紛争の余波を受け,教養2年の後期試験をストで延期された私達のクラスは,5月21日からやっと始まった専門の授業を,緊張と期待の中で受講していた。
当日の朝講堂に行ってみると,ヘルメットをかぶった一群の闘士達が,教壇を占拠していたように記憶している。当時のビラも彼らのアジ演説の内容についても今やはるか忘却の彼方であるが,確かその頃労働者に敵対する設立構想が立てられていた産業医大の設立準備に,早石先生が参加しておられるという理由から,早石先生の授業は断固阻止するとのことであった。
大阪の北野高校在学中,大学紹介の記事を通じて,「臨床医学の阪大・東大,基礎医学の京大」と聞かされていた私は,高校の大先輩でもある早石先生による生化学の講義を受けられることの期待に胸をふくらませていた。
問答無用の一方的なヘルメットの連中の主張に対して,「この講堂で早石先生の講義を受講するか否かは,私達のクラスの人間が決めることであり,外部のいかなる人間にもそれを左右する権利はなく,その介入は許さない。即刻退場してもらいたい。」と強く主張した。にじり寄るように私を取り囲み,罵声を浴びせる輩は大勢いたが,幸い私の体に手を出す者は,一人もいなかった。議論は講義室から,時の教育体制委員長であった沼先生の教授室にまで及んだと記憶している。結局早石先生の『序論』を聞かせて頂く機会を失してしまったことを今も申し訳なく残念に思っているが,秋学期からはクラスの同志と共にヘルメットの連中を排除し,早石先生の“血湧き肉踊る”講義を受けることができた。
あの当時闘士達と一緒になって声高に勇ましく体制を批判していた者の中に,真に社会医学・基礎医学を目指した者が殆どなかったことはとても残念でさびしいことと思っている。その年の夏休みから私は医化学の教室にお世話になることとなった。助教授の山本尚三先生にガラスピペットによる定量とその精度分析について手ほどきを受けたのが,私の研究生活の第一歩となった。
専門3回生の時,国際文化教育交流財団の奨学生に選ばれ,米国留学の夢が現実のものとなった。早石先生にご相談させて頂いたところ,医学部を卒業するまで待つように財団にお願いしてみなさいとのアドバイスを受けた。財団の深い御理解を頂き,昭和54年京都大学医学部を卒業後大学院に進学すると同時に,早石先生もかつて教鞭をとられた
St. Louis の Washington 大学へ Dr. Fukui として留学させて頂いた。帰国後,本庶 佑先生のもとで大学院を修了し,国立循環器病センター研究所を経て,平成7年から有り難い御縁を頂き山本尚三先生のおられる徳島大学でお世話になることになった。
このように振り返れば,終始かわらぬ早石先生の尊いお導きを賜り,医化学教室の大先輩の先生方に見守られて,今日まで基礎医学者の道を歩かせて頂いている。「京都大学医学部で学ぶ諸君のような学生の中から,一人でも多くの人に,大志を抱いて基礎医学の道に挺身して貰いたい。」との教壇からの先生のお言葉が今も心に残っている。
(1982.4〜1984.9 徳島大学分子酵素学研究センター 遺伝制御学部門 教授)
笹 井 芳 樹
私は医学生時代に4年間(1982〜86)医化学第一講座の研究室で研究・実験のまさに「いろは」からいただきました。その間直接ご指導いただいた当時の高井助教授や早石先生をはじめとする医化学第一講座の諸先生方,諸先輩方には,本当にお世話になり感謝の念を言い尽くせぬものがあります。あのころの思い出は今もこころに驚くほど鮮明に残っております。私たちの学年は早石先生のご定年前最後のご講義をいただいたクラスでもあり,最終講義では在校生を代表してお礼を申し上げたのがつい昨日のように思い出されます。(自分が講義をするようになって如何に早石先生や沼先生のご講義が素晴らしかったかをいやと言うほど感じております。ビデオで撮ってあったら勉強させていただきたいぐらいです。)
当時の医化学教室では第一講座,第二講座間の交流が密であり,生化学から分子生物学まで第一線の「本物」を肌で触れることができました。学生の私にとってその空気の中で学ばせていただいたことが何よりの財産となり,その後の研究者としての進路決定やテーマの選択を含めて多くの影響を受けました。また個性豊かな先生方に囲まれ,「基礎医学の研究は自分の個性をそれぞれ生かしてやってゆくことができるんだ」という安心感と刺激を受けたようにも思います。
当時生化学も分子生物学もすでに「方法論」となっており,早石先生も沼先生もやり方は違ってもお二人とも生物現象の根本的理解をめざして研究を進めておられ,新しい時代の息吹を感じました。そのことは早石先生の御後任で赴任された本庶先生のご研究からも強く思わされ,そのこともあり「一度医療を通して人間・生命の本質を感じる中で研究を選びたい」と思うようになりました。そして2年間第一線の救急病院(神戸中央市民病院)で内科研修を受けました。その間に神経研究の必要性と興味を覚え,大学院は迷わず中西重忠先生の門を叩きました。その後
UCLA 留学から中西研助教授時代に初期発生の研究を進め,現在は発生を通しての神経系の多様性の問題に取り組んでおります。将来的には動物行動が遺伝子どのように刻まれるかを知りたいと思っております。
医化学で学んだアカデミズムを何とか今度は次世代に伝えてゆきたいと奮闘しております。それは決して昔の医化学のまねをしてゆくことではなく,その時代時代のなかで「妥協のない本質を目指した研究」のために教官も院生も一緒になって努力してゆくことのなかにあるのでは思っております。諸先輩方には今後ともよろしくご教示のほどよろしくお願い申し上げます。(1982.6〜1986.6
京都大学再生医科学研究所 再生統御学 教授)
額 田 敏 秀
近衛通りに面した門を入って,いくつかの鉄筋の建物を左に見過ごししばらく歩いていくと,体育会系の学生がたむろしていそうなとりわけ古臭い建物がある。そこの建物の南側の入口を入っていくと,左側には研究員の名札が掛かっており,右側には階段とその下には畳を何枚か敷いた小さな部屋がある。そして油が染みついたような階段を登って3階にたどり着き,左に曲がって,確か4つめの入り口の部屋。運が悪く秘書達が居ないその部屋をノックし開けてしまった時に,秘書室と壁を挟んだ部屋の奥まった所から聞こえる,「誰や」というその声。時にその声の持ち主と数人の研究者を交えて,「奥の院」の丸テーブルを囲んで行われた論文袋詰めの儀式。古臭いが,今となっては得難い,思考を深めるに相応しい高い天井を持つ各々の部屋,各々の部屋に居すわるちょっと偏屈気味の研究びと……。
京都大学を離れて早十年,建て替えがあって以降1度も訪れたことのない私の脳裏には,あの建物の様々な風景,人々,臭いすら,昨日の如く蘇る。
その馴染みのある我々の教授室の隣の講座の和やかな雰囲気とは正反対に,我々の研究室では,ついぞその最後まで,お互いに声を大にして語ることのなかった深い思いが,今も各々の心の中に流れていると思っているは,私1人であろうか。その思いが肯定的,あるいは否定的なものであるかは知る所ではないにせよ,少なくとも私の心の中ではその後の研究生活の根底に常に在り続けるような思いがある。
それは,「研究」ということの為だけに時が流れていた日々。それを強要されたという反面,それが許されていたという貴重な時。あるいは,日本人離れしたそのずうずうしさで,ひるむことなく,真っ直ぐに発言せんとする姿。一言では形容できない執着心。出身地を同じくする者のみに流れる,どろどろ,ねとねとした血の故か,今となってはその御姿が貴重で,懐かしく,そして有り難く感じられる。
私自身は直接,関わることがなかったが,おそらく,その死の淵まで,周囲の人々を巻き込みながら,研究者として全うしようとされた沼
正作先生のその執念に,今もなお思いを馳せ,存命中に決して発することの出来なかった言葉を申し上げるとするならば,やはりム「ありがとうございました」ムこの一言が相応しいように思われる。
時の速さを思いつつ,些か感傷的にもなった今日の私を一笑されることを覚悟しながら,ペンを走らせてみた。1999年3月之記
(1984.4〜1989.1(財)東京都精神医学総合研究所 神経化学部門 副参事研究員・室長)
川 上 潔
Na, K-ATPase のクローニングをさせていただく目的で,1984年7月から1985年5月まで,わずか10ケ月間でありましたが,医化学教室沼研究室に在籍させていただきました。当時はアセチルコリンリセプターのクローニングが終わり,Na
チャンネルのクローニングの真っ最中で,野田さんを中心に数人のシークエンス部隊の方々が活躍されていたことをついこの間のことのように思い出します。沼先生には大切なことをたくさん教えていただきました。
その1:論文は外国に遅れたらしまい。1日でも早く投稿すること。そのためには,出来上がった原稿を火曜日の午後1時までに大阪中央郵便局に持参し,窓口で今日の便に間に合いますかと確かめて投函すること,そうすればその日の夜の便でロンドンに水曜日には到着し木曜日には
Nature のオフィスに届く。万一遅れても金曜日には着くのでその週にまにあう。
その2:新婚旅行は止めること。それで外国にまけたらどうする。(ただし,野田さんは沼先生にこう言われたにもかかわらづ,新婚旅行に行ってしかも外国にも負けませんでした。ありもしない
competition をつくりだされるのだそうです。)
その3:研究者は24時間研究者,夜だろうが日曜だろうが,実験をするのが当然。従ってそういうときに家にいるとよく沼先生からよく電話がある。
その4:論文の英語表現は必ず先例にしたがうこと。「それどこに例がありますか」と言うのがペーパーワークでの沼先生の口癖でした。
その5:ペーパーワークに睡眠なし。夜中の3時か4時頃ようやくデスマッチがおわり,かえって寝られるかと思いきや,「君は今から文献やって,明日朝9時には秘書さんにこれとこれやるように指示しとけよ。」などのお言葉があり,沼先生は午後から出勤される。
その6:実験の失敗には言い訳は許されない。具体例。フラコレが夜中にとまって活性画分を失ったとき。何でや。フラコレがとまっておりました。君なんでみとらんのや。フラコレなんて故障するにきまっとる。夜中じゅう起きてチェックするのが当然で私はいつもそうしてますよ。(それならフラコレ使う必要無いのでは?)
その7:共同研究者にいかに自分の仕事を早くしてもらうか。「もうほかの部分全部できてて,あと先生のアラインメントだけができてないんですわ。いつできますか?」(あさってくらいには)「いや,こっちはずっと待ってるんですよ。」(それではあしたには)「もう他にすることないんですわ。」(じゃ,今からすぐやります。)「今晩遅くまでいますからほなよろしく。」
その8:「コンピューターに間違いはつきもの。ヌクレオチドシークエンスをアミノ酸に読み替えるのは,目で全部チェックしないとコンピューター間違えますからね。今までずっとそうしてきましたから。そのおかげで,これまでの論文1つも間違いがありませんわ。」
このほかにも書ききれないくらいたくさんのエピソードがあります。短期間にこれだけ学べる場所はほかになかったし,一生忘れない教訓を学ばせていただき大変思い出深い経験をさせていただきました。(1984.7〜1985.5
自治医科大学 生物学 教授)
武 田 俊 一
まず,簡単に自己紹介をさせていただきます。私は昭和55年に大阪大学医学部を卒業後,臨床研修ののち,当時大阪大学医学部で遺伝学講座を担当されていた本庶佑教授のもとで大学院生として分子生物学を習得しました。本庶教授が京大に栄転された時に京大医化学に移籍し,本庶教授には合計7年間,院生,学術振興会特別研究員,医化学助手として指導していただきました。そして,本庶教授の推めで,スイスバーゼル免疫研究所に留学する幸運に恵まれました。この研究所に7年半在籍した後,平成7年に京大医学部に初めて設立された寄付講座であるバイエル冠講座(分子免疫アレルギー学)の客員教授として京大に戻ってくることができました。そして,平成10年12月に武部教授の後任として京大医学研究科,放射線遺伝学を担当させていただくことになりました。
阪大より京大医化学の古い校舎に引き越した時に,蒸流水専用の蛇口があること,教授室と図書室が立派なこと,大阪で聞いていた沼教授についての噂が本当の話しであったこと,沼研は教授だけでなく学生も強烈に個性的な人が多いことに驚いた覚えがあります。そして,当時,医化学にいらっしゃった高井先生,上田先生,成宮先生のセミナーを聞くことができたのはラッキーでした。また,当時,沼研と本庶研の各研究室が入り組んでおりセミナーを合同で行っていたので,沼研の研究者からも刺激を受ける機会が多く,京大医化学は阪大に比べるとたいへん恵まれた研究環境であると感じました。特に,違うタイプの研究室運営方針と豊かな才能を持った2人の教授が主宰される2つの研究室がキメラ状態になって位置しているというのは,研究者のアイデアと研究者間の人間関係を育てるのにすばらしい環境だと思います。一方,現在の京大医学部の基礎の各研究室は,1講座/1フロアーになってしまって,我々でも他の教室の研究内容,研究者がよくわからない有様です。私は,放射線遺伝学を担当するに際して,沼研と本庶研の研究者が互いに刺激しあったような環境を作っていけないか模索しております。(1986.4〜1988.4
京都大学大学院医学研究科 放射線遺伝学 教授)
水 田 龍 信
医化学教室100周年と聞いて思い浮かぶのは古い医化学の建物である。私は1986年から1992年まで本庶 佑先生の教室に所属した。1985年の秋,大学院受験の挨拶のために訪れたのがこの建物との最初の出会いであった。大学紛争の影響なのか,正面玄関が閉鎖されていて,どこが入口なのかわからず,建物を2度ばかり回ったのを憶えている。壁には蔦がからまり,床はデコボコで,時代を感じさせる建物であった。この建物の中には奇妙な物が幾つもあり,しかも,それなりに機能していた。その第一は大川部屋である。医化学の玄関(?)の横にあった用務員部屋で,炬燵,布団,クーラー,テレビ,冷蔵庫が完備していた。本来は用務員の大川さんの部屋であったはずなのだが,いつも大学院生がたむろしていた。沼研,本庶研の交流の場であり,実験以外にもいろいろ社会勉強をさせてもらった。近藤
滋,斉藤雄次,竹島 浩の先生方が常連だったような気がする。中庭の木の掘建小屋の中には,大川さんお手製の,通称,医化学温泉があった。これは,蒸留水を作製するときに出るお湯を,コンクリートの浴槽に満たしたもので,その存在自体,知る人はほとんどいなかったが,私は,鈴木昇先生から教えていただいた。24時間オープンの便利さで,薮蚊に閉口しながら何度か利用したものである。中庭にはまた,びわ,ぶどう,柘榴,栗,さらに,ポッポ(?)なる南洋の果樹の木があった。RI
施設と簡易焼却炉が横にあり,今から思えばおそらく,RI とダイオキシンで汚染されていたと思うが,貧しい学生には格好のデザートであった。学生ばかりでなく本庶先生も,毎日栗の数の減り具合を気にしておられ,事務の木津
操さん,平野和子さんの指導のもと,栗ご飯を作らせたこともあったとか。この栗ご飯はなかなか美味であったそうだが,不思議と私のところにまでは回ってこなかった。3階の図書館にはかなり古い蔵書があり,書庫の扉を開けたときの黴のにおいには,荘厳ささえ感じた。図書館の中二階には古いベッドが有り,よく武田俊一先生が仮眠をとられていた。3階の教授室はまず,大きな木の扉で通路から隔たり,一歩中に入ると別世界のような荘重さをかもし出していた。第一講座の教授室はその前室となる副室と教授室からなり,教授室にたどりつくには2つの重い扉を開ける必要があり,徐々に緊張感が高まる仕組みになっていた。中に入ると本庶先生が椅子をゆっくり回転され,おもむろに言葉を発せられる時,緊張は最高潮に達した。いつも出頭命令が下るとこの部屋へ行っていたので,叱られることが多く,あまり良い思い出はない。第二講座の教授室には入ったことはないが,隣のセミナー室にいると,時折沼先生の咳払いが聞こえた。セミナー室はこじんまりとした部屋でクーラーがあった。夏場,大川部屋がいっぱいの時はここでよく寝ていたものだが,夜中の3時頃,沼先生に起こされて,後の戸締まりを頼まれたこともあった。セミナー室では毎日ランチタイムセミナーが行われ,本庶研名物の清水
章先生と矢尾板芳朗先生の白熱した議論が懐かしい。清水先生で思い出すのは,ある時,弁当を食べておられた先生の箸から,卵焼きがすり抜けて床に落ちたことがあった。一瞬,セミナー室に緊張がはしり,清水先生の行動に全員が注視した。おもむろに先生は卵焼きを拾い上げ,埃のつき具合をしばし観察された後,驚いたことにパクリと口に入れられたのである。その時,期せずして全員からオーという溜息がもれた。さすが清水先生と,妙に感心したことを憶えている。この様な懐かしい思い出を作らせていただいた諸先生方にこの場を借りて感謝したい。
(1986.4〜1992.9 東京理科大学生命科学研究所 講師)
仲 野 徹
20年以上も昔。大阪大学医学部の学生時代。早石 修先生という大先輩が京都大学医学部医化学教室の教授をしておられる,と生化学の講義で聞いたことを思い出す。それから数年,その高弟のおひとりであられるという本庶
佑先生が遺伝学教室の教授に着任された。セミナーで眼光鋭く質問される姿や,独特のゆっくりしたスピードで歩かれる姿を見て,おぉ,やっぱりちがう,と,珍しい動物を見るように感心していたことを思い出す。何がちがっていたのかといわれてもこまるのであるが……。大阪・京都,わずか40キロたらずというものの,当時の心理的距離は地球を逆回りした4万キロ。bゥ彼方の世界と思っていた。
それから10年あまり後。そんな自分が医化学教室のスタッフになっていたのは,我が身のことながら不思議な運命だと思う。ドイツの
EMBL 留学中に,医化学教室の助手に来ないか,と,初めて見た人は必ず目をみはるという本庶先生の毛筆サインのはいったお手紙をちょうだいしたときの喜びを,そして,ハイデルベルグはネッカー川沿いのホテルでコーヒーが冷えきってしまうまで本庶先生に熱く研究の話をしていただいたときの興奮を,10年の歳月を越えて昨日のことのように思い出す。
京都大学バイオサイエンスエリアの研究レベルが高いであろうこと,競争が激しいであろうことを,ある程度覚悟はしていた。しかし,現実は予想をはるかに上回るものであった。盟友,垣塚
彰氏(大阪バイオサイエンス研究所・部長)の言を借りれば,「いいデータを出してない奴は廊下の真ん中を歩けない」ような雰囲気のなか,必死になって駆け抜けた。今となってはいい思い出であるが,正直なところきびしかった。特に,データが出なかった最初の2,3年,旧医化学・薬理学棟「6研」隅っこのデスクの前で,匙を投げれば楽になる,と何度思ったことか。そんな自分を奮い立たせてくれたのは,いっしょにがんばってくれた若い人たち,あいつにできて自分にできないわけがないというライバル意識,そして何よりも本庶先生の激励(あるいは叱責)であった。今でも思い出すことがある。ある日の深夜2時ごろに6研の全メンバーが実験していたことがあったのを。こんなにみんなが努力しているのに満足な結果が得られないはずがないと,最後の力を振り絞ろうと決意したころ,長いトンネルを抜けたように研究が進みだした。あと半年遅れていたら,力尽きていたかもしれないと思うこともある。医化学教室の持つ伝統の底力が,ともすれば弱気になりがちな自分を支えてくれた。5年たらずの医化学生活を終えて,数多くの修羅場をくぐり抜けることができたという満足感にひたりながら,大阪大学へと40キロの道程を帰っていった。
それから3年あまり。在籍当時はつらく長いと思えた日々であったけれど,短くそして充実した日々であったという記憶しか今となっては残っていない。医化学に在籍中は長く感じるけれど,いざ出てしまうと短く思えてしまうというのは,どうやら自分だけではなく多くの人に共通の感覚のようである。タイやヒラメは出てこなかったけれど,これではまるで竜宮城ではないか。医化学教室はサイエンスにおける竜宮城。そういえないこともないかとは思う。それなら,もう1度いざなってあげようかといわれたら,ちょっとこまってしまうのではあるけれど……。高いレベルの研究を行える場所,学問とは何かを学べる場所,というのはいたるところにあるだろう。京都大学医学部医化学教室でしか学べなかったものは何かと問うたとき,それは学問における「帝王学」とでも言うべきものではないかと思う。そんなもの君が学んで何になったのか,といわれると,いよいよほんとにこまってしまうのではあるけれど……。
(1990.11〜1995.6 大阪大学微生物病研究所 遺伝子動態研究分野 教授)
鍔 田 武 志
私は医化学教室には1991年から1996年まで,前半は助手,後半は助教授として在籍しました。この間,多くのことを学び,また,それなりの業績もあげることもできました。一方,私の助教授時代に医化学教室の歴史にとって重要と思われる事件がありました。それは,看板と建物が変わったということです。ここでは,紙面も限られていますので,この事件について私の立場から書いておきたいと思います。まず,看板は大学院化と共に変わり,これは文字通り看板のすげ替えで終わりました。しかし,建物が変わるというのは実に大変な作業でした。当初の作業は,教室間のスペース配分の問題を除いては,極めて形式的なもので,図面のチェックといっても,何が水道管で何がコンセントかもわからないまま見ていたり,工事の視察ということで,スタッフ全員でヘルメットをかぶって工事現場に入って,コンクリートの固まりを見て帰って来たりとのどかなものでした。しかし,移転の日が近づくにつれ,実験台や流しなど種々の備品の注文にまごまごしていると用度掛からヒステリックな電話がかかってきたり,教室内の引越の打ち合わせでは,分担する作業量が多いとか打ち合わせが長くて時間の無駄だといわれたりと,殺気をも感じるようになりました。何といっても大変だったのは,医化学教室内に余りにも多くの物品等があったということです。とりわけ,多くの試薬と放射性廃棄物の処理は大変で,これについては助手の柴原君が指揮をとって教室員ほぼ全員で処理をしました。また,医化学教室内の膨大な物品の選別も大変な作業で,これも,多くの教室員で分担して作業を行いました。移転当日までに多くの教室員が物品の選別や移動の計画を入念に立てていたので,移転当日の作業は極めて順調でした。しかし,その前後には多くの問題点が出てきました。用度掛を通して注文した物品が到着したのですが,実験台の下にいれるべく注文した冷蔵庫が大きすぎて入らない,椅子が実験台に比べてはるかに低いために使い物にならない,といったように文字通り間尺に合わない物品の山ができました。その度に用度掛に説明を求めるわけですが,これは,我々が注文を依頼した物品と「同等品」が届いたもので手違いではないということでした。つまり,我々の注文した物品はまとめて入札され,その結果市価よりも安い値段で買えるのですが,その際に,少々大きさが異なるものでも同等品,すなわち同じものと認められるわけです。これについては,1つ1つ事務にお願いして交換や補修の交渉をしてもらわないといけませんでした。また,動力電源が不足していることがわかり,入居直後にすでに何箇所もの工事が必要でした。さらに,古い建物の取り壊しの際には,危険な試薬が残っているという嫌疑がかけられ,本庶先生を先頭にスタッフ全員でサーチライトを手に,電気の切られた建物内を調べにいきました。また,ここには差し障りがあって書けないような事件もありました。最後には,新アイソトープ実験室の管理者を決めたりこまごまとした物品の購入の際には,対応が悪いと武部先生に呼び付けられてしかりとばされたりと,あまり思いだしたくない事件が,今から考えると次から次へとひっきりなしにおこっていました。私が,東京に移る直前には古い建物もすべて跡形無く取り壊されていました。どこの引越も同じようなものともいえるのでしょうが,医化学教室には,余りに多くの歴史が詰まっていたように思われます。(1991.5〜1996.6
東京医科歯科大学難治疾患研究所 免疫疾患 教授)
近 藤 滋
85年から3年間大学院生として,95年から1年半講師として医化学にご厄介になりました。さらに阪大時代や遺伝子実験施設時代を加えると,10年の長きにわたり,本庶
佑先生にお世話になったことになります。つまり,研究者人生の前半はほとんど本庶先生の近くにいたわけですから,本庶先生を通じてそれ以前の先輩方が培った伝統,思想が自然と身に付いているはずです。それではどんな伝統,思想を吸収したのかといいますと,おそらく私にとってそれは,「自分は一流であるから一流の研究ができるだずだ」という信念というか,アプリオリな思いこみだったと思います。思い起こせば大阪大学で本庶研究室に入学したときから,こう思うのが当たり前であると何となく信じていました。研究室全体がそういった雰囲気に溢れていたのだと思います。この考えは自分にとってはなかなか心地よいものですが,なんと言っても根拠がありません。そもそも大学院に入りたての学生が一流の研究者の訳はなく,当然実験もなかなか進みません。「一流の研究者なのにうまく行かない」となると,理論的には「怠けているからである。」となってしまうため,必然的によりハードに実験をせざるをえません。まことにもって恐るべき教育的な伝統であると言えましょう。しかしながら,考えてみますと研究をするときに「必ずうまくいく保証」などあるわけはないのです。特に先進的で重要なものほど,ある意味博打的要素を必ず含んできます。そういった仕事に取り組むときに,自分に対する自信と結果に対する楽観的感覚がなければ,到底何年にもわたる研究をやり続けることなど不可能なのではないでしょうか。
本庶先生のご厚意もあり,2年前に徳島大学総合科学部でポストを得,独立した研究者としてのスタートを切ることができました。大講座制のためスタッフは自分だけしかおらず,また使えるスペースも非常に限られており,医化学時代がいかに恵まれた環境であったかを感じる溜息の出る毎日です。ではありますが,得意の「なんとかなるはずだ」という信念が生きているおかげで,有り難いことにそれほど落ち込まずにやっていけております。無論,信念の賞味期限が来る前に「なんとかなって」くれないと困るのではありますが。
(1994.4〜1998.3 徳島大学総合科学部 自然システム学科 発生学 教授)
田 代 啓
医化学教室開設100周年,おめでとうございます。
私は,現在,京大・遺伝子実験施設・遺伝病解析分野にて,医化学 I(本庶研)在籍の10名のメンバーを迎えて,通称「SST グループ」のヘッドとして研究活動をさせていただいております。私自身は,医化学の「外」に出ておりますが,本庶先生をはじめ,医化学
I のメンバーと密接に共同研究しておりますので,現在の研究内容を御紹介させていただきます。
SST は,シグナル・シークエンス・トラップ法という cDNA 発現クローニング方法の略称です。サイトカイン,ホルモン等,細胞間情報伝達を担う分泌タンパクの大半と,細胞膜表面受容体や細胞接着分子など膜タンパクの多くは,N
末端分泌シグナル(リーダーペプチド)を持ちます。そこで N 末端分泌シグナルを持つタンパクをコードする cDNA を選択的に単離すれば,細胞間情報伝達を担う分子が多数とれてくることを確認し,発現クローニング方法に応用しました。1992〜3年に,昔の4研で,本庶先生と仲野
徹先生(現阪大)のご指導のもと,多田秀明さん(現小野薬品)らとともに開発した方法です。この SST 法を用いて細胞制御を担う新分子を単離・機能解析するのが「SST
グループ」の主な研究内容です。現在,SST グループでは,次のような研究を遂行しています。
1.当グループで1993年に単離・解析・命名したサイトカイン・SDF-1 の抗エイズ作用のメカニズムの研究
a.SDF-1 遺伝子エイズ発症遅延型ポリモルフィズムの作用メカニズムの解明
b.SDF-1 発現組換えアデノウイルスによる対 AIDS 遺伝子治療法の開発
c.低分子量 SDF-1 レセプターアンタゴニストを用いる AIDS 発症遅延法の開発
d.血中 SDF-1 レベル測定系の開発(世界最高感度です。)
2.神経系幹細胞研究(京大脳外科・高橋 淳博士との共同研究)
a.神経系幹細胞株 AP14 を出発材料に,分泌タンパクと膜タンパクをコードする新規 cDNA の SST 法による単離と機能解析
b.昨年単離した神経系幹細胞増殖活性を持つ新規サイトカインの機能解析
c.神経系幹細胞表面マーカー群の同定と抗体作製
d.表面マーカーの組み合わせで神経系幹細胞を定義し,FACS 純化する試み
3.ES 細胞を in vitro で血球系に分化させる培養系から SST 法で単離された新規サイトカイン ESOP-1 のノックアウトマウスとトランスジェニックマウスによる機能解析
4.皮膚樹状細胞を出発材料に,SST 法による新規情報伝達分子の単離と解析
5.心臓,血管の内皮と平滑筋を出発材料にSST法による新規分子の単離と解析
「血球・血管・神経細胞の分化・遊走を制御するサイトカイン・SDF-1」,「HIV-1 ウイルス感染」, 「神経系幹細胞」というと,
一見, あまりに多岐で全く独立したテーマのようですが,
細胞間情報伝達物質の分子生物学的研究という立場からは,密接に関連した一貫性のあるテーマです。本年1月に,血球系幹細胞と神経系幹細胞がお互いに転換可能であるという発表が
Cell や Science 誌上をにぎわしています。神経,血球,血管各細胞系の上流(未分化段階)での垣根は低くなっています。この新しい潮流を確かなものにするために必要な
Key molecule は,多数,当グループの手の内にあります。
医化学教室が確固として培ってきた,「分子の単離と解析」という基本を忘れず,それに根ざした細胞間情報伝達メカニズムの解明と,その応用としての
AIDS 発症遅延や,幹細胞移植による中枢神経変性や外傷の修復・再建を実現したいと考えています。グループには,大変意欲的でパワフルなメンバーがおり,彼らと毎日研究していると,これは単なる夢や願望では無く,実現することを前提としたステップの遂行なのだという実感がみなぎってきます。
私が,この様に,神経系と血球・免疫系の分子生物学的研究に一生を捧げようと決心したのは,学生時代(昭和57年)から早石先生,渡辺恭良先生のもとで,プロスタグランディン
D2 の中枢神経系における役割に関する研究に参加させていただいたこと,渡辺先生の御紹介により神経解剖学教室の水野昇先生,杉本哲夫先生,金子武嗣先生に御教示を受けたこと,本庶研に入って血球系と免疫系の細胞分化研究を木梨達雄先生について学んだことによります。御指導いただいた各先生方に深く感謝いたします。わけても,Molecular
Biology のもつ大きな potential を医学生だった私に理解させ,指針を与えて下さった本庶先生に感謝いたします。
(1996.12〜 京都大学遺伝子実験施設 助教授)
生 田 宏 一
私は,京都大学医学部医化学教室に1984年4月から1987年4月までの3年間を大学院生として,1996年7月より現在に至るまでの約3年間をスタッフとして在籍していた(る)。この手記ではこの内大学院生の頃の思い出を綴りたい。
1984年春に,本庶教授の移動にともない,清水 章・福井 清・二階堂敏雄・石田直理雄・野間隆文・小椋利彦諸先生方とともに大阪より京都に移り,医化学教室での実験をスタートした。第一講座には,高井克治先生・上田國寛先生・成宮
周先生・吉田龍太郎先生方もおられた頃であった。阪大医学部の中ノ島キャンパスより移った当初,京都の町が学生にとって住みやすいことにとても驚いた。大阪とは違い,京都は自然が豊かで,人々はマイペースで生活をしていた。
旧医化薬理学本館はコンクリート製の3階建ての建物で,医化学教室はその南半分を占めていた。当時の医化学教室にはどこかあいまいなアナログ的な部分が多く残っていた。例えば,用務員室(大川部屋)・医化学風呂・図書室の奥二階・中庭のさまざまな小屋や畑・テニスコート横の油掛け地蔵さんなどである。夏場に蚊取り線香を持ちながら医化学風呂に入ったことを印象深く思い出す。蒸留装置の冷却水を利用し,その湯温が実に巧妙に保たれていることに感心したものである。また,西側1階には5ないし10リットル位のフラスコを一度に数十個振とうできる大きな培養装置が残っていて,以前医化学教室で行われていたであろう生化学の研究を想像することができた。また,ある時期中庭の飼育小屋でラットを飼うことになり,そなえつけのギロチンでラットを殺処分したことも思い出に残っている。現在では,医化学薬理学研究棟(医学部
A 棟)は最新の5階建てのビルに一新し,研究環境は格段に改善してしまい,今や建物内で古き良き時代の医化学教室の面影を残す場所は,地下の畳の部屋のみとなった。また屋外では,大川さんの畑が近衛通り沿いにあり,医学部キャンパスで最も心なごむ風景の一つである。もちろん,大川さん・木津さん・平野さん達の医化学教室への貢献は昔も今も変らないままである。
医化学教室での3年間は当然ではあるが実験に明け暮れた日々であった。第一,第二講座を問わず,スタッフの先生方や大学院の先輩後輩の方々からの強い影響を受けながら,さまざまなことを吸収した3年間であった。また当時の医化学教室には研究者としてのお手本となる方が多く,本庶先生はいうまでもなく,沼 正作先生の研究への情熱には大きな影響を受けた。また,週に
3・4 回あるランチセミナーの数の多さと質の高さ,学会発表の際のプリゼンテーションの仕方の厳しい指導に,大学院生にとっては遠い山のような存在の早石 修先生から受け継がれている医化学教室の伝統を強く感じた。一方で,実験の合間にソフトボールで汗を流したことや,祇園祭の宵宮へ繰り出したことを昨日のように思い出すことができる。私にとって医化学教室で過ごした3年間は,何も知らなかった学生が実験手技を身に付け,実験を組み立て論文をまとめていく過程を身をもって体得したかけがえのない時代であった。また,当時第一講座では
IL-2 レセプター鎖・サイトカイン遺伝子のクローニング,第二講座ではアセチルコリンレセプターをはじめとする様々なイオンチャンネル遺伝子のクローニングが次々と展開していた。自分の身の回りで世界的研究が進んでいくのを目のあたりにして,一つの研究の流れがいかに形成され進むのかということを見聞できたことも大変幸運であった。本当におもしろい(自他ともに興味深く普遍的である)研究を成し遂げたいという強い意識が自分の中に生まれた時代でもあり,それは今日まで続いているのである。
(1996.7〜 京都大学大学院医学研究科 分子生物学 助教授)
高 橋 正 純
私は大学院・ポストドクの5年間を本庶研で過ごしましたが,記憶に残る医化学教室と言えば,私にとってはやはり本庶教授と在りし日の沼教授を抜きには語れないと思います。当時本庶・沼,日本を代表する2人の分子生物学者が身近にいるというだけでどれ程贅沢な環境にいると感じられたことか。例えてみればエルメスとティファニーが店を並べているようなもの。(いや失礼)現役の本庶教授につきましてはこれからもこういう機会があるかと存じますので,隣の教室から拝見した沼教授について記憶をたどってみようかと思います。
隣同士ということもあってか当時は一緒にセミナーをやっておったようです。時折医化学全体の話し合いがありましたが,未だに記憶に残っているのはいつも沼先生が「データは学者さんの命です……火の元は十分気を付けてください」といった内容のことをおっしゃっておられたことです。話し合いがある度に必ずそう言っておられたように記憶しております。いつも真剣な表情でゆっくりと低いトーンで話されるご様子や隣の教室の方々の話を通して知る沼先生はとても怖そうな印象を持っておりました。米国からセミナーに来られた某先生の紹介に,「私は明日お話しされるというのを知りませんでした」……「しかし医化学の皆さん大部分明日は聞きに行くことはないでしょうから」というようなことを英語で流暢に話しておられましたが,ゲストの先生の顔がちょっと引きつっておったように見えたのは私だけでしょうか。沼先生は単にみんな忙しいのでもう1つのセミナーには多分出る余裕がないでしょうということを言わんとしておられたかと私は解釈しております。また合同で学会予行をやった折,本庶研の人がスライドの訂正個所をアドバイスしておりましたが,最後に沼先生が一言,「沼研の人は時間が無いからそのままで良いでしょう」と言っておられたのも印象的でした。発表の時間も惜しんでおられたのかと思うと頭が下がるばかりです。恥ずかしい話ではありますが,一度自分のセミナーを忘れてしまったことがあります。前日遅かったのか,その日はセミナーの始まる昼頃1本の電話で起こされました。電話を取ると小野薬品から来ておられた柴山先生が,「沼先生が今日のセミナーのタイトルを教えてくださいと言ってるそうです。」……その時の緊張感と申しますのはもう言葉では言い表せないものでありました。
最近まで伝統として開催していた大文字送り火観賞会ですが,幹事役の年,沼先生に呼ばれ永く務めておられた秘書の方のお祝いをしたいと頼まれました。間違いがないようにと緊張しておりました。しかし当日まで連絡もなく,送り火も始まり,どうして良いのか分からずにおりましたところ沼先生が優しい表情で,「みんなを集めてもらえますか,後は私がやりますから。」と事も無げに言われ,自らお祝いの言葉を述べておられました。沼先生の別の側面を見た思いがして心に残っております。ご病気の噂を耳にするようになってから,たまたま私はこれも当時医化学の伝統となっていた中央検査部の採血のバイトをやっておりました。そんなある日,沼先生が採血に来られました。気後れして最初はベテランの看護婦さんに任せてしまいました。しかし,考えてみるとそれは失礼かなと思い直し,次回からは,採血させていただきました。これも私にとっては素顔の沼先生を拝見する良い機会となりました。
> 医化学100周年ということで,この伝統を築き上げるのに各々の時代に各々のすばらしい先生方がおられたことは疑いの余地がないでしょう。私が過ごした5年間に垣間見たいわば一瞬の側面が皆さんに伝われば幸いに存じます。
(1997.10〜 京都大学大学院医学研究科 放射線遺伝学 助手)