荒木 寅三郎 (あらきとらさぶろう)

[明治32(1899)年9月11日〜大正 4(1915)年6月13日]

 慶応 2(1866)年10月17日上野国碓氷郡板鼻宿(現群馬県安中市)に,儒医である荒木保爾の次男として生まれた。11歳の時に東京に遊学し萩原塾に学び,明治15(1882)年医科大学別課医学科に入学し, 同20(1887)年同課を卒業した。その後しばらくの間, 郷里で家業を継ぎ医師を勤めていたが, 医学研究の意欲を押さえることが出来ず,翌年,医科大学生理学教室(主任大沢謙二教授)に入室するが,さらに意を決して,明治22(1889)年4月に当時ドイツ領であったストラスブルグ大学の Felix Hoppe-Seyler 教授のもとへ私費をもって留学した。ドクトル・メジチーネの学位を受け研究に従事していたが,同教授の死後帰国し,明治29(1896)年1月岡山の第三高等学校医学部の生理学・衛生学教授となった。明治32(1899)年9月,京都帝国大学に医科大学が設置されると,医化学講座担当教授となり,黎明期のわが国の生化学研究を指導した。明治36(1903)年には京都帝国大学医科大学長(学部長)となり,さらに大正 4(1915)年4月には,京都帝国大学で初めて公選により総長に就任した。以来昭和 4(1929)年まで14年間総長を務めた。この間,大正 8(1919)年には帝国学士院会員に選定され,その他数々の顕要の地位についた。総長辞任後,昭和 4(1929)年に京都帝国大学名誉教授となり,次いで同年10月学習院長に就任した。昭和12(1937)年4月に同院長を辞任してからは枢密顧問官に親任された。昭和17(1942)年1月28日狭心症のため急逝。享年77歳。