前田 鼎 (まえだかなえ)

[大正 8(1919)年11月10日〜昭和16(1941)年4月17日]

 明治19(1886)年4月16日滋賀県高島郡大溝村(現高島町)に,前田文良の三男として生まれた。前田家は先祖代々大溝分部藩の御殿医であった。滋賀県立第二中学校を経て,第三高等学校第三部を明治40(1907)年に卒業した。明治44(1911)年京都帝国大学医科大学を卒業し,直ちに荒木寅三郎教授の医化学教室へ入り,同年12月には助手に任ぜられた。大正 4(1915)年6月に,荒木教授が京都帝国大学総長に任命されるにともない助教授に昇任,在外研究員としてアメリカ合衆国へ留学を命ぜられた。大正 8(1919)年9月に帰国,同年11月に荒木教授の後を嗣ぎ,医化学講座の第2代教授に就任し,医学博士の学位を授与された。昭和 2(1927)年には京都帝国大学化学研究所所員を併任し,また同 5(1935)年には大阪女子高等医学専門学校長の兼務となった。昭和11(1936)年から2年間は京都帝国大学医学部長を勤めたが,同16(1941)年に第三高等学校長に任ぜられ,医学部教授を退職した。昭和21(1946)年に第三高等学校長を退官後,京都大学名誉教授となり,さらに,同23(1948)年からは大阪女子医科大学長となった。昭和29(1954)年校名が関西医科大学と変更後も同大学学長を勤め,同33(1958)年病気療養のため学長職を辞任。腹部腫瘍の手術後一進一退の後,昭和36(1961)年7月2日胃内出血により逝去。享年75歳。