つぶやき 〜2〜   

         1998.6.9


京都大学は、今年からポケットゼミというシステムを始めました。 4月に入学したばかりの学生を対象に、各学部の教官が独自のゼミナールを開講して相手をするという趣旨です。 私は、学部長からこのゼミナールを開講するように要請されて、苦しまぎれに“Molecular Biology of the Cell”の輪読ゼミナールをすると掲示を出してしましました。 このようにはじめは、完全に受け身で始めたゼミナールですが、四半世紀の年齢差のある研究者を夢見る学生に接する機会を得て、今は結構、戸惑いつつ楽しんでやっています。 そこで、感じたことを2つほど。

今の高校の生物学教育と受験システムは最悪では?

ゼミナールに集まった学生5人と、まず、雑談をして愕然としたこと。 それは、全員が生物学を高校時代に選択していなかったことです。 5人のうち4人は医学部へ進学する学生です。 何故、生物学を選択したなかったか? 理由はだいたい全員に共通していて、物理と化学の方が受験に有利だから。 患者さんを診る臨床医学か、病気を研究する基礎医学を目指す人たちが、こんなことで良いのか? 

本当に基礎知識がない。 場面は変わるが、入学2年目の学生を対象に分子生物学の講義を毎年行っているが、本庶先生の発案で、最近は、スモールグループ形式の演習も行っている。 最初の演習の日、僕は少し張り切って部屋に入り、シグナル伝達の演習を行った。 インシュリンの受容体のドミナントネガティブコンストラクトに関する問題を考える時に、ある学生に、“きみ、インシュリンの遺伝子は、1個の細胞の中に何個ある?”と、まず、ウォーミングアップのつもりで聞いてみた。 その学生曰く“一つです。” 師曰く“何? きみ、相同染色体って知ってるよな?” 再びその学生(決して悪びれることなく)曰く“聞いたことありません。だって、僕、生物学を高校の時、取ってませんもん。” この現実を今の高校の理科教育のカリキュラムを決めた人達は知っているのでしょうか。 昔は、理科と言えば、化学、物理、生物、地学等を勉強したものです。 それぞれの学問が進んで、知識が増えすぎたので、高校生の負担を減らすために、選択制を取り入れたと聞きますが、これは科学が進歩して各分野の境界がなくなってきている現状を考えれば、全く時代の流れに逆行した奇妙な“選択”です。 

私の意見。 大学に入るまで、化学、物理、生物、地学等、すべての勉強を必修にし、負担を減らしたいのなら“広く浅く”を目指すべし。 したがって、受験も広く浅い修得を試すべき。 学問が進んでくれば、それぞれの境界が不明瞭になってくるのが当然で、今の科学をまず理解するには、広いバックグラウンドがまず要求される。 医者が相同染色体を知らなければ、これは困る。 でも、化学を勉強してなくて触媒の意味も分からなければ、酵素の理解も出来ないし、病気も分からない。 じゃあ、物理は必要ないか? “電子線は波長が短いから粒子としての性質が強く、−−−−−”と電子顕微鏡の前で説明していると、アホのような顔をしている学生も、良い医者にはなれない時代でしょう。

オリジナリティとは?

ある日の夕方、ポケットゼミの学生2人ともう一人の同級生が、突然訪ねてきた。 彼らは言う、“Molecular Biology of the Cellを、仲間で輪読(ポケットゼミとは別に)でもして、勉強したいのですが、分からないところを教えてくれませんか?”彼らは、医学部へ進学して、オリジナリティーの高い医学研究をしたいので、今から最先端のことを勉強したいのだと言う。 僕は彼らに言った。 ”本当にオリジナリティーの高い研究とかいうのもを目指すのだったら、まず、高校の生物学を勉強して、その次に、有機化学、熱力学や統計力学などの物理学、組織学、解剖学、生化学、生理学、細菌学、等々“、基礎的なことをしっかり勉強しろ。今しかできないぞ。”と言いました。

私は、常々、オリジナリティー云々ということをいう、マスコミの論調に違和感を感じています。 彼らが研究のオリジナリティーとか言うときは、完全に“天才の独創性”と“凡才の独創性”をまぜこぜにして議論しています。 例えば、ニュートンやアインシュタインは、どんな教育を受けていても“オリジナリティー”はあった訳で、彼らには確かに、“無”から“有”を作り出す迫力があります。 でも、そんなものを“オリジナリティー”という一言で、我々凡才に期待するのでしょうか? 我々凡才のオリジナリティーとはそんなものではない筈です。 これまでの先人が作り上げてきた学問的体系をその人なりによく咀嚼して、その上に、自分らしい学問を“なんぼ”積み上げられるかが、凡才のオリジナリティーと言われるものだと思います。 ここで要求されるのは、先人が作り上げてきた学問的体系を自分のものとして消化していることと、その上に、自分なりの(マジョリティーが考えないような)独自のものを考えに考えて少しだけ積み上げるということです。

では、どうすればそのようなことが、凡人にできるのでしょうか? この答えは比較的簡単だと思います。 Nature、Cell、Scienceなどに出る論文を一生懸命勉強して、研究の方向を考えてもダメです。  これらの大部分は、ウソである可能性がまだ高いですし、もし、本当でおもしろい方向であっても、その論文の著者たちがそのことを見つけたのは、多分、論文を我々が見る数カ月以上前なのです。 決して、自分たち独自のものを、積み上げることはできません。 

私は学部の学生の時代に本格的な教科書をもっと精読し、勉強すべきだと思っています。 これまでに確立された我々の知的財産を充分その本質から理解すれば、あとは、そのうえに、本質的で他の人がやっていないこと(その判断のために、最近の研究を勉強する必要があります。しかし、あくまでも人とぶつからないために勉強するのです。)をいくつか積み上げればよいのです。 それがいわゆる(凡人の)“独創性に優れた”仕事になると思います。

皆さんのこれまでの勉強はどうでしたか? 例えば、博士課程に在籍する院生に聞いてみましょう?

ホジキン・ハックスレーの式を知っていますか? その意味するところは何ですか?ボルティッジクランプって何ですか? ミカリス・メンテンの式を知っていますか?その意味するところは何ですか? 熱力学の第2法則って何ですか? 電子顕微鏡とX線回折では、理論的にどちらが解像度が良いですか? 位相問題って何ですか? エントロピーとは何ですか? スクワレンって知ってますか? 棘皮動物って何のこと? 触媒の定義は? 光学異性体とは? 化学浸透仮説って? ライオニゼーションとは? どうして位相差顕微鏡で生きた細胞が見える? LDLって何? 非平衡開放系の熱力学って聞いたことがありますか? プリゴジンは? パッチクランプって何? −−−−− 本当に勉強すべき事は、学部の皆さんにはたくさんあります。

とにかく若い学生諸君には、ゆっくりと、広く勉強して欲しい。 ただし、ここでいう勉強とは、知識として覚えることでは決してない。 ホジキン・ハックスッレーの式が出てくるまでの議論の流れ、バックグラウンドを充分理解し、その式、および行間を充分に自分なりに味わうこと、これを勉強といいます。 

我が子(小学校4年生)の友達の生活を見ていると、放課後、弁当を持って塾へ行き、夕食を食べて、9時まで勉強して家にかえる子供が多い世の中です。 本当の“勉強”(すなわち、遊べて感動できることか?)ができる人が少なくなってくるのではないかと心配になるのは、私だけでしょうか?