つぶやき 〜1〜 

(「蛋白質核酸酵素」に書いたものを転載してます)  1・31 1998


「形態学と分子生物学の狭間で」

                      

1.形態学から分子生物学へ−−私の履歴

私は、高校生の頃から、生物学を研究して一生を過ごしたいと思うようになっていた。 これには、有機化学者だった父の影響が大きかったと思う。 小学校の夏休みの宿題に、葉っぱのクロロフィルを抽出した残りの葉脈標本を、写真のネガがわりににつかって印画紙に焼き付けたりした。 中学校の夏休みには、色々な朝顔の花から色素を抽出し、ベーパークロマトグラフィーで展開し、赤や青の花の色素の構成成分がそれほど違わないこと知って感動したりしていた。 このような環境で育ったので、自ずと、科学に関しては早熟であり、高校生の頃、当時盛んであった原核生物の遺伝子工学に夢中になり、大学では分子生物学を勉強しようと心に決めていた。 ただ、『研究をするなら医学部へ行け』という父の言葉で医学部を、神戸に生まれ灘高等学校にいたという理由で東京大学を選んだが、ちょうどその頃、原核生物の分子生物学が峠を越え、その後の真核生物の分子生物学が始まるまでの谷間にあった。

 そのような状況下で医学部へ進学した。 医学部の講義の最初は組織学である。 このとき組織学を山田英智教授が担当されていたのが、私の研究者としての方向性を偶然にも決めた。 一時の原核生物の興奮から醒めていた時に聞いた山田先生の組織学の講義は強烈であった。 山田先生は、あらゆる組織の電子顕微鏡写真を撮っておられ、その多彩な電顕写真を駆使した講義は、私の細胞観を完全に変えてしまった。 細胞とは、なんと美しく、なんと複雑なものか。 分子生物学の教科書に書いてある細胞とは、なんとかけ離れていることか。 この講義だけは、いつも早めに講堂へ行って、最前列の席に座って、夢中になって聞いていたのを、今でも昨日のことのように憶えている。

 医学部へ進学した1年目の冬休み、一人で山田先生の教授室を訪ねた。 ちょうど、当時助教授だった石川春律先生と話をされていたように思う。 山田先生に『僕、分子生物学をやりたいんですけど、その前に電子顕微鏡を勉強しときたいんですけど。』と生意気なことを言ったところ、山田先生はいつものようにニコッとされて、『いいですよ。 そんなことを言って、そのまま電子顕微鏡にトラップされてしまう人も多いんですがね。 ここにおられる石川先生としばらく勉強してみませんか?』と、博多弁で言われた。 そのまま、石川先生の部屋についていき、講義のない時間は(夜中も含めて)、解剖学教室で過ごすということになった。

 石川先生との出会いも、私の研究者人生を決めた。 石川先生は、九州大学に山田先生がおられたころの大学院生で、アメリカで筋肉以外の細胞にもアクチンフィラメントがあるという、細胞生物学史上に残るすばらしい仕事をされてから、東京大学に帰ったこられたところであった。 しかし、当時の東大生は、新しい学問に興味がなかったのか、あまり多くの人が石川先生の回りに集まっていたわけではなかった。 私は、きわめて幸運にも、学部の学生時代から大学院の間、この石川先生とほとんどマンツーマンで毎日を過ごすことができた。 いや、正確には、このとき結婚したばかりの私の家内も石川先生の勧めで同じ大学院に入ったので、man-to-man & woman という状況であった。 石川先生は従来の形を観察するだけの形態学でなく、形を見て『考える』、次の形態学を目指しておられた。 細胞生物学の広い分野にわたって確固たる哲学を持っておられた。 私たちは、誰も石川先生の回りにいないのをいいことに、先生にくっついて回って、本当に多くのことを吸収した。 夜もよく先生の部屋で酒を飲みながら、先生の終電ぎりぎりまで話を聞き、議論をした。

 私の研究はといえば、体中の組織を電顕で見ている過程でとれた神経軸索の写真を焼き付けて、山田先生に見てもらった時、『軸索の中のERは、本当はつながっているんじゃないですかねぇ』と言われた一言から始まった。石川先生が、このテーマをやってみようと言われるので、全くそのオリエンテーションも分からないまま、超高圧電顕を使って『軸索の中のERは本当はつながっている』ということを証明できた。 この結果が得られたころ、一流の国際誌に同じ結果が報告され、悔しいのと同時に、自分のやっていることが本当に世界の第一線の問題意識なのだということに驚いた。 また、このとき石川先生から『いいんですよ。 形を見て、自分で考えてやっている限り、同じ結果が報告されても、どこか違った独自性がでているものですよ。 人の論文を読んでから考えてやると、全く同じことになってしまうんですがね。』と言われたこともよく憶えている。 それから、人の論文は、自分の論文を書くときになって初めて読むようになった。

 このような全く独自性のないテーマの選び方であったが、そのまま、軸索内輸送に興味を持つようになり、幸いにもおもしろい仕事ができた。 その後、軸索内輸送に関連して、微小管系の運動の研究に移り、さらに、アクトミオシン運動系の基本である骨格筋の収縮機構の解析へと研究は進展していった。 その裏には、液体ヘリウムを用いた急速凍結技法の開発に山田先生が意欲を持っておられたことも関係した。 このような方向の仕事の関係で生物物理学会に入り、多くの人と出会うことになった。 日本の生物物理学会は、おもしろくて、その主流は、物理学を学んだ人たちが行っている形態学であった。 もちろん、我々の学んだ形態学とは異質のものであったが、なんといっても形態学なのでおもしろかった。 特に、大沢文夫先生とその同門の人たちの話はきわめて刺激的であった。 本論からはそれるが、研究者としては大学院一年生でも大沢『さん』とは対等であるという徹底した大沢さんの態度には深い感銘を受けた。 さらに、非線形非平衡の熱力学とかいう分野の研究者の述べる形態学も興味深く、『カオス』や『バイファーケーション』などといった言葉の飛び交う世界に入って楽しんだ。 当時、その中で共同研究した松本元さん(当時通産省電子技術総合研究所)、矢野雅文さん(当時東京大学薬学部)からは、形というものの物理学的考え方に関して、言葉では言い表せないほどの影響を受けた。

 そこで、私の形態学に対する考え方は、大きく変わろうとしていた。 『《形》そのものを純粋に学問として扱おうとすると、究極的には物理学の世界になる。 これは自分のバックグラウンドからして得意な方向ではない。今後は、形態学を徹底的に利用した学問の方向を目指そう』と。

 その頃 (大学院を卒業して4年ぐらいたった頃)、東京都臨床医学研究所の山川民夫所長から電話をいただいた。 先生曰く『研究所の超微形態研究部門があいたので、来てくれないか。 小さなグループが持てるし、嫁さんをスタッフとしてとっても良いぞ』。 この年齢でグループが持てることは魅力的だったが、最後の文章はもっと魅力的だった。 そして、その時、山田先生との最初の会話を思い出した。 『臨床研は、矢原先生も、鈴木紘一先生もおられるし、初心にかって分子生物学をやるぞ。 それも、徹底的に形態学を利用した分子生物学をやるぞ。』と。 それで、主に家内がこれまで続けてきた細胞膜裏打ち構造に関する分子生物学に重心を移すことを決意し、細胞接着における裏打ち構造の役割を追求することにした。 それでも、まだ分子生物学に移り切れずにもたもたしている私達に、当時出会ったばかりの竹市雅俊先生が、『もっと積極的に分子生物学的手法を採り入れなさい。』と激励して下さり、さらに、当時カドヘリンのcDNAをクローニングしたばかりの永渕昭良君まで送り込んで下さった。 分子生物学的技術を当たり前のように自由に使う永渕君の加入で、我々の分子生物学は一気に立ち上がった。 とは言っても、もし解剖学教室に残っていたら、こんなにはうまく行かなかっただろう。 当時の臨床研の研究環境はすばらしかったし、厳しかった。 すでにestablishされていた、矢原先生、鈴木先生や、売り出し中の野本先生、宮坂先生、稲垣先生らと評価委員会で『戦う』のであるから、並の神経では持たなかった。宮坂先生は戦いの前には偵察に来るし、当時まだ無名のFasと悪戦苦闘していた米原さんは、ひやかしにくるし。 それでも今から思えば、日本とは思えないくらいフェアーな厳しい評価体制のもとで、外国への留学以上の体験をすることができたし、『形態学を徹底的に利用した分子生物学』の基礎を築くことができた。

 臨床研に移って3年たち、ようやく研究が軌道にのり始めた頃、所長室に当時岡崎国立共同研究機構生理学研究所の所長であられた江橋節郎先生が来られ、生理研に誘って下さった。 かなり迷ったが生理研に移ることにした。 最終的に臨床研から生理研へ移ることに決めた最も大きな要因は、生理研では大学院生がとれるということであった。 臨床研で最も苦しかったのは、あちらこちらから大学院生の籍を借りてくることだった。 このことは、先方の大学院にも迷惑をかけたし、何よりも大学院生が可哀想だった。 移籍が決まってからも山川所長のご好意で、約1年間、そのまま臨床研で研究を続けさせていただき、その間に生理研の方をセットアップすることができた。

 生理研に移ってからの研究は、臨床研時代に敷いたレールの上をただ走れば良いだけで気持ちとしては楽だった。 また、大学院生がとれるというメリットも最大限に生かされて、多くのやる気のある優秀な学生が数多く集まってくれた。 線路が敷かれていて、馬力があれば、汽車は突っ走る訳で、生理研では、予想を遥かに越えたスピードで研究成果が出ていった。 江橋先生の後の所長に、なんと山田先生と並んで電顕の神様と呼ばれていた浜清先生がなられたということもあって、何とも楽しい毎日であった。 タイトジャンクションの接着分子オクルディンの同定に成功した時には、形態学を徹底的に利用した分子生物学を指向してきて間違いではなかったな、という確信じみたものが自分のなかに浮かんでくるのを感じた。

 生理研での生活が4年目に入ろうとしていた時、京都大学の医化学の本庶先生から、セミナーをして欲しいとの依頼があった。 本庶先生は、学生時代に東大に助手としておられた関係でそのころお話したことがあったが、突然の依頼だったので戸惑いながらも、日本の分子生物学の総本山の感がある医化学教室に出かけていって、形態学を利用した『分子生物学』の成果をお話した。 その夜、本庶先生からお電話があって、『医化学に来ないか』とのお話があった。 当時の浜所長や江橋先生のご尽力や、京大側の寛大な御処置のおかげで、2年間もの長い間、兼任し、この4月から完全に京都大学に移った。 私を招聘した京都大学医学部の意図は、形態学を利用した分子生物学を今まで以上に発展させることと、それ以上に、形態学を利用した分子生物学を指向する学生を育てることの2点にあると思う。 前者は、これまで通りで良いとして、後者は難問である。 

2.これからの若い人が形態学を学ぶということ 

そもそも今の細胞生物学は形態学を中心として始まった。 細胞生物学という言葉が使われ始めたのも、動物細胞が電子顕微鏡で観察され始めたころからである。 その後、顕微鏡、特に、電子顕微鏡で精力的な観察がなされ、多くの知識の蓄積とそれらを整理して理解するためのいろいろな哲学が生まれた。 私自身は、この哲学を石川先生から徹底的に習った。 しかし、今考えてみると、当時の解剖学教室では、蛋白室化学ましてや遺伝子工学など全く出来ず、電子顕微鏡しかなかったので、形態学に集中できたのであろう。 今の学生は、その意味では“恵まれていない”。 どこでも遺伝子工学が出来る。 そんな時代に、超薄切片を一日中座って切るのは、よほどの変わり者でない限り、かなりの苦痛を伴うのではないだろうか。

 このような理由で、一度も顕微鏡で細胞を眺めたことのない、分子生物学者が次々と生まれてくる。 分子生物学者が遺伝子だけを扱っていた時代はそれでも問題はなかった。しかし、時代が進み、分子生物学者は細胞を扱うようになってきた。 そこに至って、細胞を見たことのない分子“細胞”学者が、細胞を研究せざるを得なくなってきた。 そこで生じる不都合は、だいたいパターンが決まっている。 遺伝子を改変した細胞や、個体を創ったが、それを顕微鏡で見ても何も分からない、と言うのである。 ここに2つの問題点がある。 一つは言うまでもなく、分子生物学のトレーニングを最初に受けたものにとって形態学の技術と像の読解が難かしすぎることである。 すなわち、分子生物学に較べると形態学の技術がまだまだ科学として完成度が低いので、分子生物学に慣れたものにとって抵抗があるのである。 もっとも昔の解剖学者が保身のために(?)形態学の技術は難しいと必要以上に主張しすぎた面も否定でない。 像の解釈の問題は、それ以上に深刻である。 こればかりは、高度なパターン認識なので、若い時の修行が必要である。 というと格好良いが、顕微鏡像というのは、そこから何も情報を抽出していない生のデータなのであるから、まだ科学といえる段階ではなく、したがって難しい。 したがって、科学技術として完成度の高い分子生物学から、完成度の低い形態学の方向へある年代になってから進もうとすると、これは大変なのである。 逆は、私たちがやってきたように可能である。 結論として、やはり科学的でないものは、若い時に修行する必要があるのだろうか。 

  もう一つの問題は、技術的な問題ではない。 今の分子細胞生物学者は、細胞や個体での異変を期待して、遺伝子を改変しているのであるから、細胞や個体をこれまで顕微鏡で見たことがないというのは、戦略上不利である。 これまでの形態学を中心とした細胞生物学の知識の集積を身につけていれば、どの遺伝子をどのように潰したらおもしろそうなことが起こりそうかという予測がつきやすい。 また逆に、こういう機能が考えられている遺伝子を改変したのだから、その細胞は形態のどの点に注目して観察すればよいかということも予測がつく。

  結論としては、これから分子細胞生物学を目指す若者は、形態学の技術と知的蓄積を若いときにまずマスターすべきである、マスターして損はないということになる。 では、分子生物学的技術が溢れている環境にある若者をどうしてこの方向に指導するか? 私の場合は、全くの偶然と積み重ねで、知らず知らずのうちに無意識にこの道をたどってきたのであるが、これからはこんな偶然はますます起こり難いのである。 意識的に若者を形態学から入るように導かなくてはならない。 これは言うは易しく、行うは難しい。 そもそも、研究者は意識的に導くものかという疑問もある。 そこで、とりあえず、若者に読んでもらって、その中から、形態学から分子生物学を目指そうという人が自発的に出てきてくれることを期待して、この雑文を書いてみた。 海外出張からの帰りの飛行機の中で、アルコールを少し飲みながら開放感に浸って書いたので、主旨からそれる記載が随所にあったり、言い過ぎたりしている点があるのはお許し頂きたい。