前田教授時代

[大正 8(1919)年11月10日〜昭和16(1941)年4月17日]

 荒木寅三郎教授が京都帝大総長に選ばれると,医学部教授会は,大学卒業5年を経たばかりの助手の前田 鼎を,先ず助教授に昇任させた上3ケ年の米国留学を命じ,帰国後教授に推挙することを申し合わせた。前田は明治44(1911)年11月に京都帝大医科を卒業し,直ちに荒木教授の医化学教室に入って助手となり,講義準備から教室の運営,研究生の指導など殆どすべてにわたり負担し,荒木教授の絶大な信頼を得ていた。第一次世界大戦の最中であったが,前田は,大正 5(1916)年1月に神戸を出発,3年9ケ月の米国留学の後,大正 8(1919)年9月に帰国し,その11月に医化学講座第2代の教授に就任した。
 総長になってからも研究指導を続けた荒木教授のお陰で,この間も絶え間なく医化学教室からの論文は発表され,スタッフも,助教授こそ不在であったが,講師,助手,大学院生等充実した陣容であった。したがって,研究面では荒木時代を継承する形で前田教授の時代が始まったといってよい。前田教授は教室の門をたたいて入門した者に対して,各自の研究テーマに取りかかる前に相当長期間にわたって化学実験の基礎的修練の教育に力を入れた。その内容としては生物化学,物理化学,有機化学,分析化学などに関する実験,最後にエステル法による蛋白質からアミノ酸の系統的分離操作などが正規の実習課程とされていた。これを1ないし2年がかりで修めるのであったが,中にはこの基礎修練を終わりあるいは中途で止めて他の分野へ移る人もあったという。

 大正11(1922)年に,当時助手であった内野仙治(大正7年京都帝大医卒)が助教授に昇任し,教室の研究教育体制が整った。大正14(1925)年10月に,東京帝大医学部の垣内三郎教授が中心となって日本生化学会が設立され,東京において第1回総会が開催された。翌大正15(1926)年の10月29日から31日までの3日間,京都帝大において第2回総会が,生化学会京都部会(代表委員は京都帝大理・小松 茂;委員として京都帝大医・前田 鼎,京都帝大農・大杉 繁,同近藤金助,同鈴木文助,京都府医大・後藤基幸)主催の下に開催された。ここでは,4題の交見演説(シンポジウムに相当する)と59題の報告演説が行われたが,第1日目の交見演説の1つは前田教授による「諸種ポリペプチド誘導体に対する酵素の作用」であった。この中で,前田教授は,今井 通,河合 勉,村地 龍,秋本秋介,内野仙治,大谷 茂等の教室員の業績をまとめて紹介している。
 大正15(1926)年の10月には,第一次世界大戦のため輸入が途絶えた医薬品の製造を目標として,荒木総長の尽力により化学研究所が設置された。前田教授はその創立と同時に,化学研究所所員として参画し,ここに化学研究所と医化学教室の深いつながりの歴史が始まった。(以下「化学研究所医化学系研究室」参照)
 昭和 4(1929)年4月に,内野助教授が在外研究員として2年間ドイツヘ留学し,Heinrich Wieland 教授のもとで研修し,昭和 6(1931)年8月に帰国した。その後,内野助教授は,昭和 7(1932)年6月化学研究所教授に就任,昭和11(1936)年3月には長崎医科大学医化学講座の教授を兼任し,同13(1938)年6月にいたり東北帝大医学部医化学講座教授(井上嘉都治教授の後任)として転出した。昭和11(1936)年5月に医化学教室助教授の席に着いたのは,助手の明石修三(昭和2年京都帝大医卒)である。
 この時期には医化学教室を含む基礎医学講座の建物の再建計画が実現していった。まず,昭和 9 (1934)年に L 字型の薬物学教室が,次いで,昭和12 (1937)年にヨの字型の真ん中の
部分に当たる医化学,薬物学の講堂および実習室が建築された。さらに,医化学教室のために残りの部分(東側と南西隅)が2期にわたって建築され,昭和14(1939)年にヨの字の平面を持つ医化学・薬物学教室の建物が完成した。建築にあたり明石助教授は大学営繕課と折衝をくり返し,大変な努力を払って新しい教室の建築に貢献した。時あたかも日中戦争が勃発し,昭和14(1939)年に設置された医学部薬学科は,当初の鉄筋コンクリート3階建ての計画を変更し,旧医化学教室を改装増築して用いることを余儀なくされた。
 昭和13(1938)年4月には第10回日本医学会総会が森島庫太名誉教授(薬物学)を会頭として京都で開催されたが,この時前田教授は生化学会分科会の会長を勤めた。前田教授はこれに先立ち,昭和 5(1930)年から大阪女子高等医学専門学校(現関西医科大学)の校長を兼務していたが,昭和11(1936)年には京都帝大医学部長となり, 1期2年学部運営の仕事を勤めた。 こうした大学管理の業績が評価されて,前田教授は昭和16(1941)年第三高等学校の校長に就任,医化学教室における22年間の教授職から退くことになった。
 前田教授時代の研究業績は100編余りあるが,前田教授の単独または共著での発表はない。教室からの論文は Hoppe-Seyler's Zeitschrift fuer Physiologische Chemie,Journal of Bio- chemistry,Acta Scholae Medicinalis Universitatis Imperialis Kiotoensis(京都帝国大学医学部紀要),京都帝国大学化学研究所講演集に掲載されている。研究内容は,酵素と生体成分の2つの分野に分かれていた。前者は内野助教授が中心となり,タンパク質やペプチドの各種誘導体,特に種々のアシル誘導体を有機合成して蛋白質分解酵素(トリプシン,ペプシン,ペプチダーゼ)の分解を調べ,酵素の特異性を解明する研究であった。後者には,牡睾丸,蚕蛹,米胚芽,糸状菌,細菌などの化学成分を明らかにする研究があるが,主として明石助教授が先輩から引き継ぎ発展させたものである。中でも同助教授が構造決定したオクトピンはたこ,いか,貝柱などに発見されたグアニジン化合物で,比較生物学的に興味深いものである。
 前田教授の時代には,医化学教室から Carl Neuberg 教授,Albrecht Kossel 教授のところへ留学した冨田雅次が大正12(1923)4月に帰国して長崎医科大学医化学教授(後に台北帝大教授,山口医専校長)に,Heinrich Wieland 教授に学んだ清水多栄が大正12(1923)4月に帰国,岡山医科大学医化学教授(後に岡山医大学長,広島医大学長,岡山大学長)に就任した。 また,東北帝大医学部医化学へ移った後藤基幸が大正12(1923)年12月に京都府立医科大学医化学教授(後に名古屋市大医医化学教授,岐阜県立医大学長),法医学に移った遠藤中節が大正14(1925)年に岡山医科大学法医学教授(後に京都大医法医学教授,神戸医大学長)に就任した。さらに,微生物学へ移った木村 廉が昭和 3(1928)年に京都帝大医学部微生物学教授(後に名古屋市大学長),国立栄養研究所に移った杉本好一が昭和 4(1929)年4月に同研究所調査部長(後に厚生科学研究所国民栄養部長,大阪医大医化学教授)になった。またそれより先,外地において,広畑龍造(岡山医専卒)が台北医学専門学校医化学教授(後に九州大医医化学教授),戸田 茂(岡山医専卒)が満州医科大学医化学教授に就任している。このように全国各地で医化学教室の出身者が活躍した。
 晩年の前田教授の講義は,謹厳実直,古武士のような風格があったという。研究指導は,前述のような物理化学実習,医化学クルズスを細大漏らさず新しく入室した者に課し,研究の基礎を教育した。前田教授は,荒木教授の時代を継承し,次代への橋渡しをした点で評価される。荒木教授,前田教授時代の教室同門から4人の学士院賞受賞者が出ている。すなわち,古武弥四郎(トリプトファーンの中間代謝についての研究,昭和8年),冨田雅次(胎生化学についての研究,昭和11年),清水多栄(胆汁酸の化学的及び生理学的研究,昭和13年),木村 廉(ビタミン B1 に関する研究,昭和34(1959)年)の諸氏である。(中 澤 淳 記)